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Yitzhak Benbaji「道徳的なもの、個人的なもの、私たちが気にしていることの重要さ」

Yitzhak Benbaji, The moral. The personal, and the importance of what we care about - PhilPapers

Benbaji, Yitzhak (2001). The moral. The personal, and the importance of what we care about. Philosophy 76 (3):415-433.

フランクファートの論文へのリプライ。

Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

  1. CIPを擁護するフランクファートの論証
  2. CIPと道徳的なものと個人的なもののジレンマ

CIP(Frankfurt's Care-Importance Principle)とは、以下のような原則のこと

何かを気にかけているのであれば、それがその人にとって重要であることが導かれる。これは気にかけることが重要さに関する不可謬の判断を含むからではない。何かを気にかけることは、それをその人にとって重要なものにするからである。

CIPのもとでは、以下が必然的に成り立つ。

pがXを気にかける→ Xはpにとって重要である。

著者はこれに反対している。私たちは一般に重要でない物事を自分たちにとって重要なものにすることができる。しかし時折失敗することもある。要するに、フランクファートは重要さについての主観説とでも言うべき立場を支持しており、著者はそれを批判している。

フランクファートの言うような重要さの創出が説得力をもつ事例は確かにあって、それは著者も認めている。

例えば、友人の健康が私にとって重要なのは、私が友人のことを気にかけているからだ。フランクファートによれば、愛することの一部は気にかけることによって構成される。このケースでは、元々重要だから気にかけているというわけではなく、気にかけているから、重要になったのだというのは正しそうだ。

しかし、重要でないことを気にかけてしまうこともある。例えば、私が、友人は雨を嫌うだろうと考え、友人が雨にぬれるかどうかを気にしているとしよう。しかし、これはただの誤解であり、友人は雨にぬれることが結構好きだった。

この場合、私は、重要でないことを気にしている。私は、誤った信念に基づいて、非合理的な仕方で気にかけていた。フランクファートのようにCIPを全面的に認めると、気にかけることの合理性の評価は、意味をなくしてしまう。

さらにこれは私の動機に反する。友人が雨にぬれるかどうかが私の心配とは独立に重要なことだと思ったからこそ、私はそのことを気にかけていたのだ。私が気にかけることによってそれは重要なことになったのだと言われても、私の心配は正当化されないだろう。