G.K.チェスタトン「おとぎの国の倫理学」

G. K. Chesterton, The Ethics of Elfland - PhilPapers

Chesterton, G. K. (2008). The Ethics of Elfland. The Chesterton Review 34 (3/4):443-460.

正統とは何か

正統とは何か

『正統とは何か』Orthodoxyの3章。最初の出版年は1908年のはず。意外にもphilpapersのリンクがあった。

これは論文ではなく、エッセイのような気もするがまじめに読む。

ここでチェスタトンはおとぎの国(elfland)の優先性を論じている。おとぎ話の優先性とは、おとぎ話からえられる倫理と哲学こそ、他の思想に優先するということである。チェスタトンはおとぎ話からえられる原理によって、唯物論・機械論・進歩主義などを批判する。「おとぎ話は空想ではない。おとぎ話に比べれば、ほかの一切のもののほうこそ空想的である。おとぎ話に比べれば、宗教も合理主義もともにきわめて異常である。」(p.78)

だいぶ省略するが、おもしろいのは、唯物論・機械論の否定の箇所である。

必然性

チェスタトンによれば、おとぎ話の世界には論理的必然性というものはあるが、物理的必然性や自然法則などというものはない。

「おとぎの国では、すべてを想像力の基準によって判断する」。「二本と一本で木が三本にならないなどということは、とても想像することさえできはしない。」(p. 81)

論理的必然性または形而上学的必然性は、おとぎ話でも有効であるが、物理的必然性や自然法則と呼ばれるものは真正の必然性ではない。リンゴが木から離れることと、リンゴが地面に落ちることの間には必然的なつながりはない。リンゴがそのまま自由に飛んでいくことは想像できるし、十分に可能だからだ。本来、必然性と呼ぶに値するのは、想像の法則である論理的必然性だけに限定される。

では、なぜ自然は斉一であり、同じことを繰返すのか? それは魔法だからである。木から離れたリンゴは、必然的に落下しなければならないわけではない。もし毎回落下するとすれば、それは魔法であり、奇跡である。私たちは本来、自然のすべての所業に対して驚異すべきなのである。

機械論的世界観の否定

ところが、このおとぎ話の哲学を忘れ、現代(20世紀初頭)には、機械論的・唯物論的世界観がはびこってしまっている。

機械論的世界観に対する反論はなかなか愉快なものだ。チェスタトンによれば、機械論的世界観の前提は、反復は機械的というものである。この前提によれば、もし宇宙に生命があり、人格的なものであれば、宇宙はもっと変化しつづけ、突然踊りだすにちがいないというのだ。しかし、現に自然は斉一なのだから、この宇宙は決定論的な宇宙であり、機械的に法則に従うだけだろうと。

  1. 反復は機械的なものである。
  2. この宇宙は斉一であり、反復を繰り返す。
  3. よって、この宇宙は機械的な宇宙である。

ところが、この前提はまちがっている。反復は生命であり、変化をもたらすのは、むしろ飽きや疲れである。

子供はいつでも「もう一度やろう」と言う。大人がそれに付き合っていたら息もたえだえになってしまう。大人は歓喜して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力を持っている。きっと神様は太陽に向かって言っておられるのにちがいない------「もう一度やろう。」p.100

つまり、神は小学生よりもテンションが高いので何でも繰り返す。神が歓喜してアンコールを繰り返すために、自然は反復する。

唯物論的な宇宙観---広大な宇宙のイメージも否定される。チェスタトンによれば、私たちは好きなものに対して指小辞をつけて、小さなものと呼ぶ。相手が象であっても同様にリトルエレファントなどと呼びかける。

その理由は何か。どれほど巨大な物であっても、一つのまとまりを持った物と感じられる時、小さいという感じがするからだ。p.105

そしてチェスタトンは、あきれるくらい宇宙が好きなので、宇宙がひとつのまとまりを持った物として感じられるし、宇宙は実に小じんまりとしているという。

なお、宇宙の広さと人間のとるにたらなさというのは人生の意味などに関連して繰り返されるテーマだ。多くの哲学者は、宇宙の物理的な広さなんて関係ないんだという。しかし、私の知るかぎり「宇宙は小さいんだ」と言って反論したのはチェスタトンひとりではないかと思う。