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Kendall Walton「音のパターンの提示と描写」

http://philpapers.org/rec/WALTPA-10

Walton, Kendall (1988/2015). The presentation and portrayal of sound patterns. In Kendall L. Walton (ed.), In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford University Press 230-257.

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

これはウォルトンがめずらしく音楽作品の存在論(らしきもの)をやっている論文だ。初出は結構古い。主には音楽作品の上演と作品の関係を扱っている。演奏が、ある特定の作品の上演であるということは、何によって決まるのかという問題を扱っている。

ベートベン対メカベートベン

ウォルトンは、楽譜によって音のどの部分を決めるのかという規約が、文化相対的なものであることに注意をむける。例えば、ブラックホール第三惑星人の楽譜は、地球の西洋音楽とは違う文化に従う。ブラックホール第三惑星では、楽譜はピッチや音の長さを明確に特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートに関して、地球より細かな指定をする。

ブラックホール第三惑星のメカベートベンという作曲家が書いた第六交響曲を考えよう。これはもちろん、ブラックホール第三惑星方式の楽譜で書かれたものだが、偶然、その演奏が地球のベートベンの第六交響曲の演奏と識別不可能なほど似ているということはありえる。このとき、この演奏は、メカベートベンの音楽作品の上演なのか? ベートベンの音楽作品の上演なのか?

音楽対料理対文学

上のような思考実験に対し、ありうる答えとして、「上演しか存在せず、音楽作品なるものはない」「上演がどの作品に属するかは、音楽システムに相対的な事柄だ」というものがある。

ウォルトンはこれを批判し、音楽の演奏に関して作品は、そんなどうでもいいものではないということに注意をむける。例えば、料理の場合、目の前の食物が美味しいかどうかがすべてであって、それが何のメニューに属するかは比較的どうでもいいことかもしれない。料理の場合、「作品」という抽象的なものはなく、目の前の食事がすべてだというのは正しいかもしれない。

一方、料理とは逆の極にあるのが文学作品だ。文学作品の場合、作品の個々の事例、つまり作品を印刷した紙それ自体の個別性にはほとんど何の価値も置かれないだろう*1。その機能は、抽象的パターンを提示することだけに限定される。

音楽はちょうどその中間にあって、作品自体も評価の対象になるし、演奏にも固有の貢献がある。さらに音楽の演奏は、パターンを提示する機能にくわえ、描写portrayalする役割をもっている。演奏は、パターンを解釈し、分析し、組織化する。演奏者は、例えば、二つの部分のアナロジーを強調するために、(それ自体は楽譜に指定されていなくても)音色を正確に似せたりする。

結論

演奏が演奏によって提示するパターンは当然ながら作品と無関係ではない。おそらくブラックホール第三惑星の演奏者の念頭にあるパターンは、ピッチや音の長さを特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートを特定するようなパターンだろう。地球の演奏者の念頭にあるパターンは、反対にピッチや音の長さを特定するような構造をもっている。

以上を手がかりに、ウォルトンは以下のような条件を与えている。

ある音出来事がある所与の作品の上演であるのは、その出来事が生じる文脈において、その役割がその作品と一致する音パターンを提示することであるちょうどその場合である。

要するに、演奏がある作品の上演となるかどうかを決定するのは、演奏が提示しようとしているパターンだというわけだ。ただし、作品が提示するパターンは複数あるし、純粋な音の構造だけではない(楽器の種類とか)という問題もあって、最終的な定式化はもう少し複雑になっている。

ちなみに書籍版の後記では、最近の音楽作品の存在論に苦言を呈している。最近の音楽作品の存在論があまりおもしろくないのは、美的関心や音楽の価値や、それが聴取者に何を与え、生活にどう寄与するのかといったことから切り離して論じているからだと。「自分は作品の価値と切り離さずにやってるよ」という自負なのかもしれない。

*1:組版のデザインがよいということはあるかもしれないが、これを文学的価値に含めることはないだろう。