読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Sacha Golob, ハイデガーの主張論

Sacha Golob, Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics - PhilPapers

Golob, Sacha (2015). Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics. European Journal of Philosophy 23 (4):878-908.

目次

  1. 論争の用語を定義
  2. (A)のいくつかの問題
  3. 「Carman-Wrathallモデル」 (A*)をBで説明
  4. (A)についての新しい「方法論的」説明
  5. (B)のステータス: 志向性、内容、文法

たまたま読んだ。なかなかおもしろかった。

ハイデガーは、主張Aussage(ないし判断)を、事物的存在者(手前存在)に深く関連するものと見なしている。しかし、両者の関係は正確にどのようなものなのか。

「手前存在」というのは、おおまかには、哲学史上で「実体subject」と呼ばれるものに、ハイデガーがつけた変な名前にあたる。著者によれば、(1)「実体」にくわえて、(2)時空間や因果的性質で個別化されるモノ、(3)道具的・社会的関係から切り離されたものとしての事物という、だいたい3つのイミで使用されているらしい。

主張と手前存在の関係について、よくある解釈は以下のようなものだ。

命題的志向性は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

対象を(主張の)命題的志向性によって志向することは、文脈依存的な知覚や実践とのつながりを切断し、孤立した対象として切り縮めることになる。著者はこれをCarman-Wrathallモデルと呼んでいるが、もともとはドレイファスなどがこの解釈らしい。

しかし、著者によれば、これがハイデガーの立場であるということはありそうにない。著者はさまざまな難点をあげているが、そもそもハイデガーの著作の中には、この解釈で前提されているような、ゆたかで文脈依存的な知覚的世界についての記述はほとんどない。

かわりに著者は以下のような解釈を提案する。

命題的志向性に対する、ある種の哲学的分析は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

ハイデガーは、主張の命題的志向性そのものではなく、それに対する特定の哲学的分析を批判しているという解釈だ。ここで特定の哲学的分析というのは、現存在の分析という形をとらない分析を指す。もっと言うと、現存在の社会的文脈において主張が果たす役割の分析以外の形をとった分析を指す。哲学者が、主張の行為としての側面を無視し、個物に対する性質の述定という側面だけに注目したとき、対象は手前存在として現れてくる。

感想

ハイデガーは、いくつかの箇所では、単純に「手前存在というタイプの存在者もあるよ」と言ってるように見えるので、その点で著者の解釈は微妙かなと思った。もし、ハイデガーの立場が著者のいうようなものなのであれば、「手前存在などない」と言ってほしいように思う。

それとも、電子を理論的存在者と見なす哲学者のように、手前存在を、理論に依存した存在者だと考えていたという話なのだろうか。それならちょっとわかる。そういう風に考えていいなら、以下のようにシンプルに整理できていい感じじゃないかと思うんだけど。

  • 手前存在(事物) = 理論的判断に依存する存在者
  • 手元存在(道具) = 実践的判断・行為に依存する存在者