Kendall Walton, 「なんて素晴しい!」

Kendall L. Walton, How marvelous! Toward a theory of aesthetic value - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1993). How marvelous! Toward a theory of aesthetic value. Journal of Aesthetics and Art Criticism 51 (3):499-510.

Marvelous Images: On Values and the Arts

Marvelous Images: On Values and the Arts

ウォルトンの美的価値論。この論文では「美的価値」という語を使っているが、どちらかと言えば「美的経験」や「美的快」を論じたものとして読んだ方がいいかもしれない。

「美的に価値がある」と言われるものは、(1)きわめて多様であり、さらに(2)他のさまざまな価値にともなうという特徴をもっている。例えば、ある作品に美的な価値があると言われる場合、それは刺激的であるかもしれないし、感情をゆさぶるかもしれないし、洞察やカタルシスを与えるかもしれない。考えさせるかもしれないし、日常からの逃避を与えるかもしれない。人を道徳的にするかもしれないし、人生の指針を与えるかもしれないし、宗教的体験を与えるかもしれない。美的な価値はときに、実践的価値や認知的価値や道徳的価値や宗教的価値に付属する。

ウォルトンは、美的価値を、一階の評価判断を対象とする高階の態度的快によって捉えるよう提案する。例として、巧みな技術を称賛するようなケースを考えてみよう。例えば、私が素晴しい楽器の演奏に触れ、心から称賛の態度をとるとしよう。このとき私は、演奏技術を称賛するだけではなく、演奏が称賛の態度を生じさせたことに快を見出すかもしれない。素晴しい演奏に接し、それを味わうことは、称賛だけではなく、ときに称賛による快をもたらす。

以上の事例で私は、(A)素晴しい演奏を称賛し、(B)さらに素晴しい演奏を称賛することに快を見出している。前者の演奏に対する称賛が「一階の評価判断」にあたり、後者の快が「一階の評価判断を対象とする高階の態度的快」にあたる。単純に言えば、「評価」と「評価による快」の二つがある。

実際、「鑑賞」とか「味わう」という語には元々この両者の意味がある。それは単に素晴しい演奏を享受するという意味ももっているし、それを評価することも意味している。

提案された分析はだいたい以下のようなものだ。

美的快: 称賛などの評価にともない、評価を対象とする快。

xが美的価値をもつ: xに対して美的快をもつことが適切である*1

この立場の特徴は、美的価値があるから称賛するのではなく、称賛による快が美的価値であるという風に説明を逆転するところ。

この説の魅力は、以下の2つにあるとされる。

  1. 一階の評価判断は、かなり多様なものであっていい。このため、一階の評価判断をいろいろ交換することで、美的価値の多様性をうまく捉えることができる。
    • 例えば、技術の称賛ではなく、畏怖・驚異といった評価判断と、それにともなう快を考えることで、自然美の美的価値にも適用できるといった可能性が検討されている。
  2. また、 一階の評価判断は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などの判断であってよい。このため、美的価値は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などに付属するものでありえる。
    • 美的価値に美的価値がともなうという「ブートストラップ」の可能性も示唆されている。

また、この説は、芸術における技術志向をうまく説明するかもしれない。芸術には、制度外から見れば無意味に思えるような技巧の追求がともなうことがある。音楽における超絶技巧演奏、複雑な対位法、絵画における極端な写実主義、文学における韻律などは、時に美的価値を高める手段であるという側面を越え、それ自体が目的として追求される。

美的価値が「評価による快」によって構成されているとすれば、この現象は実にうまく説明できる。評価による快が目的なのであれば、技巧を手段と捉える必要はなく、技巧の追求自体が自己目的化していくだろうからだ。

また書籍版のPostScriptでは、マイナスの評価判断に快が伴うケースを考えることで、B級映画の快を捉えられるかもしれないという話があって、そこもおもしろかった。

*1:「適切である」の部分は、おそらく美的判断の規範性を捉えたいのだと思うが、あんまり詳しく説明されていない。