Noël Carroll「サスペンスのパラドックス」

ノエル・キャロルのサスペンスに関する代表的な論文を読んだ。

Carroll, Noël, 2001, “The Paradox of Suspense”, in Beyond Aesthetics Cambridge: Cambridge University Press.

この論文は、Suspenseというタイトルの論文集が初出で、その後キャロルの著作Beyond Aestheticsに再録された。

サスペンスとは何か

サスペンスとは何か。いわゆるハラハラドキドキという情動のことだ。ヒッチコックはサスペンスの名手と言われるが、映画、特にアクション映画やスパイ映画といったジャンルでは、サスペンスは重要な構成要素となる。

サスペンスをかきたてる状況として、キャロルがあげる典型例は、以下のようなものだ。

人質が縛られた部屋で、時限爆弾の時計がカチコチと鳴っている。ヒーローが救出に向っているが、妨害に合う。残された時間は少ない。果して救出は成功するのか…?

典型的なサスペンスの演出では、「さあ今にも悪いことが起こりそうですよ!」という可能性が執拗に提示される。映画であれば、救出に向うヒーローの映像とともに、時限爆弾がカチコチ鳴っている映像が何度も映されるだろう。

この例でもわかるように、サスペンスは、現実化していない可能性に向けられる。観賞者の期待に基づいた情動だ。

キャロルはサスペンス的状況の構成要素を、以下のように分析している。

  1. 二つの排他的な可能性がある。
  2. 二つの可能性の対立が目立ったものになっている(観賞者の注意がそこに向くようになっている)。
  3. 二つの可能性のうちの一つは、悪い出来事であり、そちらが起きる見込みが高い。
  4. 二つの可能性のうちのもう一方は、より良い出来事だが、そちらが起きる見込みが低い。

表で書くと以下のようになる。いわば潜在的な危険が目の前にある状態だ。

可能性 価値 見込み
A 爆弾が爆発し、人質が死ぬ 悪い 高い
B ヒーローが人質を助ける 良い 低い

ちなみに、サスペンス的状況の後にはその「解決」が来るというのが定番なのだが、サスペンスの解決とは、可能性のうちの一方が現実化すること(上の場面で言えば、ヒーローの救出が成功するか、または爆弾が爆発すること)と見なすことができる。

ただし、生活でのサスペンス的状況と、フィクションの中のサスペンス的状況には重要な違いもある。「悪い」出来事と言っても、フィクション鑑賞者に直接危害がふりかかるわけではないからだ。

このため、フィクションにおけるサスペンス的状況は、登場人物に対する心配を経由する必要がある。観賞者が登場人物を心配し、ふりかかる危険を恐れてくれないとサスペンスは盛り上がらない。これを媒介する重要なファクターが道徳だ。サスペンスは道徳的評価によって媒介される。上記の例でも「悪役」と「ヒーロー」が登場しているが、登場人物に対する道徳的評価は、サスペンスを強化すると言われる。

サスペンスのパラドックス

サスペンスのパラドックスは、「再読の問題」などとも呼ばれる問題だ。

上記の分析でも、サスペンスの対象は潜在的な可能性であるとされているが、サスペンスの成立要件には不確定性が含まれているとされる。しかし、多くの観賞者は、サスペンスを求めて、繰り返し作品を摂取する(この論文によると、キャロルは『キングコング』を50回以上観ているらしい)。ところが、再読(再視聴)する観賞者は、結末をすでに知っているのだから、サスペンスを感じることはないはずだ。

パラドックスの形で書くと、

  1. サスペンスは、結末が観賞者にとって不確定であることを必要としている。
  2. 再読(再視聴)する観賞者もサスペンスを感じる。
  3. しかし、再読(再視聴)する観賞者にとって、結末は不確定ではない。

ちなみに、サスペンスに関しては心理学の研究も多少あるのだが、実験すると、実際は再読(再視聴)によってサスペンスは低下するが、にもかかわらず0にはならないらしい。サスペンスのパラドックスで問題になっているのは、この「なんで0にならないのか」という部分だと理解していいだろう。

解決

キャロルの解決は、キャロル自身も認めるように、ケンダル・ウォルトンの解決とほとんど同じものだ。これは、フィクション鑑賞における観賞者の想像は、フィクション外的な事実を選択的に無視するという現象に訴えるものだ*1

説明のために少し脱線しよう。先ほどあげた時限爆弾の例を思い出してほしい。繰り返し視聴を考えなくても、実際には、この場面の結末は、ほとんどの視聴者にとって簡単に予想できるのではないだろうか。もちろん例外もないわけではないが、こうした紋切り型の場面では、ほぼ確実にヒーローが人質を助けて終わるだろう。

つまり、作品外の知識を動員すれば、実際には、この場面で爆弾が爆発するリスクはきわめて低いと考えられる。しかし、こうした事実は、実際には観賞者のサスペンスを邪魔しないことが多いだろう。「だいたい主人公が勝つよね」などといった作品外の知識に訴えることは野暮であるし、フィクションを楽しむ際に、多くの人は、そういう余計なことを考えずに済ますことができる。

だが、そもそもそういう選択的無視が可能ならば、結末を知っているとしても、それを無視することもできるのではないだろうか。フィクション外的な知識を無視するのと同じように、結末に関する知識を、単に一時的に無視してやれば良い。

この立場は、忘却説(観賞者は結末を忘れている)という別の立場にも似ているのだが、ちょっと異なっている。キャロル=ウォルトン説では、観賞者は別に結末を忘れているわけではなく、いつでも思い出すことができるが、単に関係ないので無視しているだけだからだ。

これは、フィクション外の知識とフィクション内の知識を自在に使いわけるというフィクション鑑賞の特徴に訴えた説明と見なすことができるだろう。

*1:想像の哲学では、この現象は、想像の隔離性などと呼ばれる。