John MacFarlane「プラグマティズムと推論主義」

MacFarlane, John (2010). Pragmatism and inferentialism. In Bernhard Weiss & Jeremy Wanderer (eds.), Reading Brandom: On Making It Explici. Routledge. pp. 81--95. https://philpapers.org/rec/MACPAI

Twitterで松井隆明(@takaaki_matsui)さんが紹介しており、おもしろそうだったので読んだ。

ブランダムは「意味のプラグマティズム」という哲学的立場を主張し、それによって自分の「推論主義的意味論」が正当化されるとしているが、前者から後者の正当化は出てこないという批判をしている。要するに、意味のプラグマティズムが正しいとしても、別に真理条件意味論でいいじゃんと言っている。

意味のプラグマティズム

意味のプラグマティズムとは何か?──意味の使用説と言ってもいいと思うが、指示とか真理といった意味論的概念は、言語の使用に即して説明されねばならんという立場のこと。この立場に基づけば、言語の意味に関する事実は、話し手にとって公的に観察可能な言語使用の規範にのっとって説明されなければならない。

これだけだとなんでこんな立場をとるのかわかりにくいが、マクファーレンは背景のモチベーションを次のように説明している。「意味のプラグマティスト」の前提は、「そもそも意味論的概念は、適切な言語使用のルールを説明するためのものなんだから、言語使用のルールに還元できない意味論的概念はおかしい」というものだ。つまり「意味のプラグマティスト」からすれば、言語の意味を明らかにすることは、公共的なゲームのルールを記述するような試みなので、公共的じゃないものに訴えるのはポイントを外しているということになる。もちろん当然ながら、それにも反対する論者はいるわけだが、意味のプラグマティズムが正しいかどうかはこの論文のテーマではない*1

マクファーレンの批判は、「仮に意味のプラグマティズムが正しくても、推論主義だけが意味のプラグマティズムにかなった意味研究のプログラムだとは言えない」というものだ。

マクファーレンの批判

批判は以下のような二段構えで進む。以下、マクファーレンの主張を「マク」、ブランダム側の仮想反論を「ブラ」と記述する。

  • マク「代表的な真理条件意味論の支持者であるデイヴィドソンを考えてみよう。デイヴィドソンも意味のプラグマティズムをとってるし、意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しているぞ」
  • ブラ「いや、確かにデイヴィドソンは意味論的概念を言語使用にもとづいて説明しようとしているが、推論主義の方がもっと使用説的なのだ。なぜなら推論主義をとると意味論的概念を言語使用に還元できるからだ」
  • マク「ブランダムも還元できてないじゃん。ブランダムの言ってるコミットメントとかって、妥当な推論の構造のことであって、行為の規範じゃないじゃん」

(批判の中身をちゃんと解説すると大変そうだったのでダイジェスト版のみ)

感想

この論文を読んでも書いてないが、おそらくマクファーレンの基本姿勢は、「意味のプラグマティスト」かつ真理条件意味論なのだと思う。しかし、反対にそのせいでわかりにくいという意見も聞くような気もする。例えば、マクファーレンは真理の概念などをめちゃくちゃ融通無碍に使うのだが、それは基本的に、真理の概念は、言語使用の規範を説明するための道具だと割り切っているからだろう。

あと当然ながらこの論文の批判だと、「推論主義が絶対!」という立場は否定されるが、「目的によっては、推論主義がフィットするよ」という弱い立場はもちろんまったく否定されない。私自身は、道具は目的に応じていろいろ使ったらいいという立場がよいと思う。

むしろマクファーレンの相対主義意味論を推論主義(証明論的意味論)で書いたらわかりやすくなるのではないかと前から思っている。そういう意味では、この論文は、マクファーレンの基本姿勢がよくわかってよかった。

*1:マクファーレンもちょっと触れているが、これはどっちかというと意味に関する哲学的な立場の対立であって、形式意味論は別にどっちの立場でも使える。