Kathleen Stock, Only Imagineを読みはじめた

Only Imagine - Kathleen Stock - Oxford University Press

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

Only Imagine: Fiction, Interpretation, and Imagination

Kathleen StockのOnly Imagineを読みはじめた。と言ってもまだ序章と1章を読んだだけなのだが、これからまじめに読んでいこうと思っているので、紹介記事を書くことにした(余裕があれば後続記事も書きたいと思っている)。

本書は、美学における二つの領域──(1)フィクションと想像、(2)作品解釈──に関わる著作だ。虚構的真理、フィクション、想像といったフィクションの哲学のトピックを幅広く扱っているし、同時に、作品解釈に関する意図主義と反意図主義の対立を扱っている。2017年に出た比較的新しい本なので(といってももう2年前だが)、これらのトピックに関する最新の議論を扱っていると言っても良いだろう。

出版社の紹介を読めばわかるように、本書は、フィクションの内容に関する「極端な意図主義」を擁護する著作だ。この紹介だけを見ると「すごく極端な立場をがんばって擁護する本」という内容を予想する人もいるだろう。私も手にとる前はそういう内容を予想していたし、「めんどくさそうな本なのかな」とちょっと敬遠もしていたのだが、実際に読むと、この期待は肩すかしに合うことになった。むしろ、羊頭狗肉感があるというか、比較的穏当な立場を「極端な意図主義」と称しているのではないか?という疑念を覚えた。もちろん、それなりに議論の余地のある主張もしているのだが、「極端っていうほど極端か?」という印象はある。

むしろ多くの面で比較的穏当な立場を擁護しているように見えるし、細かい概念のさばき方は非常に参考になった。私自身は、意図主義対反意図主義の論争にはそれほど関心はなく、関心はむしろフィクションの理論の方にあるのだが、少なくともそちらに関しては、著者の主張はそれほど極端なものには見えなかった。

極端な意図主義

著者のいう「極端な意図主義」は、単純に言えば、以下のような主張だ。

  1. フィクション作品の虚構的な内容は、著者の意図によって決まる。
  2. フィクション作品の虚構的な内容は、普通の会話と同様に、グライス的な意図の理論によって説明できる。

序章で明示されるように、これはあくまでも作品の虚構的内容、つまり作品のシナリオにおける基本的事実(虚構的真)に限定される主張だ。著者の意図主義が適用される範囲は、作品内のベーシックな事実の規定のみに限定されており、それ以上のより高度な解釈(作品のテーマや文学的効果や美的価値)には適用されない(この時点ですでに、あまり極端ではない)。

さらに一章では、基礎概念を整理するとともに、「極端な意図主義」に関するよくある反論に答えている。以下、ここでの議論をダイジェスト的に紹介する。反論は赤字、著者の再反論は青字で書く。

反論: 極端な意図主義をとると、いわゆるハンプティ・ダンプティ効果、つまり話し手が意図さえすれば、任意の文によって任意の内容を意味することができるという帰結を認めることになる。例えば、「1+1=2」と言って、「芝生は緑色だ」を意味するような、まったく滅茶苦茶な意味を認めることになってしまう。だが、これはおかしいだろう。

再反論: 極端な意図主義をとってもハンプティ・ダンプティ効果を認める必要はない。なぜなら、そんなに変なことを意図することは人間にはできないからだ。一般に、相手がPすることを意図してQする場合、行為者はQがPの効果的な手段であることを信じていなければならない。「1+1=2」と言って「芝生は緑である」と伝えることを意図するためには、話し手は、「1+1=2」と言うことが「芝生は緑である」と伝えるための良い手段であると信じていなければならない。しかしそんなことはありそうにない。

著者によれば、話し手は基本的に慣習的に定められた文の言語的意味を利用する。「芝生は緑である」という内容を伝えるために、「芝生は緑である」という文を利用することが一般的なのは、多くの場合にそれがもっとも倹約的な手段だからだ。だが、話し手は時に会話の含みを利用して、非慣習的な意味を伝えることもある。しかし、いずれの場合も、基本的に話し手が意味する内容は、話し手の意図にそっている。

そして、著者によれば、これはフィクション作品の場合も基本的に変わらない。フィクション作品は、日常会話とは目的が異なっており、読者に特定の内容を想像してもらうことを目的にしているが、その点以外は日常会話とあまり変わりがないのだ。

反論: 仮にものすごく非合理的な信念をもった人がいて、「1+1=2」と言うことが「芝生は緑である」と伝えるための良い手段であると信じていたらどうするのか。

再反論: その場合は譲歩して、「私の理論は、ものすごく非合理的な信念をもった人には当てはまらない」と認めてもいい。

この最後の再反論でずっこけた。