Mark Okrent, Intending the Intender:あるいは、なぜハイデガーはデイヴィドソンではないのか

Intending the Intender: Or Why Heidegger Isn’t Davidson,” in Heidegger, Authenticity, and Modernity: Papers Presented in Honor of Hubert Dreyfus, ed. M. Wrathall (Cambridge: M.I.T. Press, 2000).

ハイデガーデイヴィドソンを比較する論文。たまたま見つけたので読ん だ。 というかachademia.eduにHeidegger in Americaというタイトルでアップロードされていたのだが、これ違う論文なのでは? (読んでから気づいた)

著者によれば、ハイデガーデイヴィドソンの立場は実は類似しており、どちらもデカルト主義に敵対しており、行為との結びつきによって志向性を説明しようとする。

ここでいうデカルト主義は、次の主張を擁護する立場だ。(1)心は実体である。(2)あらゆる心的状態は意識的である。(3)状態は、意識的である場合にのみ志向内容をもつ。(4)意識的心的状態はその表象的性格のために志向的である。(5)心的状態において表象されるものは思考者に透明である。

この立場によれば、心は主体にとって透明であり、心的状態の内容は主に内省を通じて確定される。

デイヴィドソンハイデガーはどちらもこの立場に批判的であった。両者にとって、心的態度に志向的内容を与えるのは、行為との結びつきである。例えばデイヴィドソンにとっては、「今日は晴れている」といった信念は、他の行為や態度、例えば、「だから洗濯物を干そう」といった行為を合理化し、動機づけるかぎりにおいて、はじめてかくかくの信念たりえる。

一方ハイデガーにとっては、志向性の典型は、道具の使用であり、例えばハンマーをハンマーとして志向する際、わたしたちが示す態度は気づかいであり、気づかいを通じてわたしたちは環境や道具や道具の使用目的などと関わる。この態度が世界内存在としてのわたしたちを特徴づけている。

つまり、大雑把に言うと、どちらもデカルト主義を批判し、行為との関わりによって志向性を説明しようとしている。だが、ハイデガー独自の部分として著者は以下の論点をあげる。

著者によれば、デイヴィドソンは行為を扱う際に、目的合理性だけに訴えているが、ハイデガーは別種の規範性も扱っている。それは道具の使用に結びついた規範性であり、道具の「正しい使用法」に結びついたものだ。さらに道具の正しい使用法を参照することで、われわれは自分のアイデンティティも選ぶ。例えば、靴屋の道具を正しく使うことで、ひとは靴屋になる。これらはハイデガー独自の論点だろうと著者は主張する。