『失われた時を求めて』を読み終わった

ついに『失われた時を求めて』の最終巻である14巻を読み終わった。記録によると、2019年4月1日に1巻を読み終わっているので、およそ1年ちょっとの間、読みつづけていたらしい。ちなみに前半は光文社古典新訳文庫、後半は岩波文庫で読んだ(光文社版はまだ6巻くらいまでしか出ていないはず)。

つらい戦いだった。正直言ってこれまでの読書人生の中での最難関と思うくらいにはつらかった。何がつらいかというと、途中までまったくおもしろさがわからなかったことだ。8巻くらいでようやくコツをつかみ、それ以後は楽しく読めるようになったのだが、そこにいたるまではまったくおもしろさがわからず、本当につらかった(むしろその状態で8冊も読んだという我慢強さに感心してほしい)。

何がつらかったか。ひとつには趣味の問題がある。小説というものを、仮に、「何が起こったか(出来事)」と「それに対して何を感じたか(思念)」の2つの構成要素に区別することが可能であるとすると、プルーストの場合、両者の割合は出来事対思念が1対9であり、圧倒的に思念の側に分量が割かれる。『失われた時を求めて』は出来事を描く小説ではなく、思念の小説である。だが、わたし自身は、どちらかと言えば、小説には出来事を描いてほしいと思う(なんだったらヘミングウェイやチャンドラーのように即物的に出来事だけ書いてほしい)。したがって、とにかく出来事が起こらないこの小説になじむのは大変だった。

もちろん、出来事が起こらないと言っても、前半の方は、少年時代のエモいエピソードも数々あり、「スワンの恋」や「花咲く乙女たちのかげに」などの恋愛のエピソードもあって、ふりかえって考えれば読みやすい方だったと思う。

それ以上に輪をかけてつらかったのは——これは読んだ人の多くが同意してくれるのではないかと思うが——パーティの場面だ。「ゲルマントの方へ」などのパーティがつづく部分は本当につらい。そこで主に描かれる主題は、「何とか伯爵夫人が自慢話ばかりしていておもしろい」「何とか公爵夫人の言い回しが変わっていておもしろい」といった話題だ。

ひょっとすると、当時の読者には「あるある」的なおもしろさがある描写なのかもしれないが、19世紀フランス社交界のあるあるを語られても、まったくピンと来ない。おもしろい言い回しの話も、「普通こういう場面ではleを使わないのに、leを使っているからおもしろい」といったフランス語の話なので、まったくピンと来ない。さらにそれが本一冊分くらいはつづく。

この辺りで、挫折しそうになったので、対策を立てようと思い、鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて』を読んだが、これを読んだのは正解だったと思う。おかげでプルーストの手の内がある程度わかるようになり、だいぶ読みやすくなった。

私の考えでは、『失われた時を求めて』には「イメージと実態のズレ」「嫉妬」「時間」という3つくらいの主題があって、それが手をかえ品をかえ、さまざまな形で登場するのであるが、参考書を読んだおかげで、何となくその辺りの関係がつかめるようになった。

思うに、プルーストの重要な魅力のひとつは、「よく考えるとすごく普通のことしか起きてないのだが、語りを読んでいるうちに、何かすごいことが起きているような気がしてくる」という観念の詐術にあると思う。起きていることも言っていることも、よくよく考えると普通のことなのだが、プルーストの観念的な語りによって、いつの間にか、超越的で観念的な世界に高められるのだ。

例えば、『失われた時を求めて』の中で繰り返されるモチーフのひとつに、「イメージと実態のズレ」に関するものがある。これは要するに「名前や顔だけを見て、イメージがふくらんでいたが、実物を見たら思ったより普通だったのでがっかりした」という話で、本書では非常に重要なモチーフのひとつで、語り手は、人であれ土地であれ、とにかくさまざまなものにイメージをふくらませて、その後幻滅することになる。これなども、起きている現象はよく考えるとすごく普通のことだし、プルーストが書いているのでなかったら別におもしろい話にもならないような気がするのだが、プルーストが書くと、ふくらんだイメージのイデア的な崇高さ・近づきがたさが高められ、何かすごいことが起きているような気分になる。

また、このふくらんだイメージの極限に、「嫉妬」という状態があって、この状態に陥ったスワンと語り手は、「恋人に裏切られているのではないか」という妄想にかられ、さまざまな奇行に走る。この辺りもプルーストの筆致だけ読んでいると、ものすごく観念的な話をしているように見えるのだが、実情としては、わりと下世話な話をしているのである。

小説の結末の方で、語り手は、友人の娘であるサン=ルー嬢という少女に出会う。そして、このサン=ルー嬢こそ、分かたれた二つの世界、「ゲルマントの方」と「スワン家の方」を結びつける存在——要するにゲルマント家とスワン家の両方の血縁——であることを見出して驚愕する。しかし、よく考えると、これは要するに近所の人二人が結婚して娘を生んだというだけなのである。

こういう書き方をすると、まるで文句を言っているかのようであるが、当然そんなことはなく、わたしは大変楽しんで読んだ。一度プルーストの語り口に乗ってしまえば、その観念の世界が展開していくのが楽しみになり、世界がプルースト的に見えるようになるという魅力のある小説である。

『判断力批判』の謎

カントの『判断力批判』という本は主にふたつの事柄について論じている。美的判断と、自然に関する目的論的判断についてだ。

だが、ここには大きな謎がふたつある。

  1. なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。
  2. 特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか。

驚くべきことに、『判断力批判』という本を読んでも(少なくとも、さらっと読んだだけだと)、この謎の答えはわからないのだ。少なくともわたしは読んでもよくわからなかったので、実は何度もこの疑問の答えを調べようと思っていた。最近改めて調べて、ようやく半分くらいはわかったので、答えをまとめておこうと思う。書いておかないと、また忘れて調べるはめになりそうなので。

ちなみに、この疑問は、実は調べ方も少し難しい。『判断力批判』では、本の中でも、一部をのぞいてほとんど判断の話をしていない(美的判断の項目では、判断力という言葉自体ほぼ出てこない)ので、たとえばカントの美的判断論だけを追っていると、カントの美的判断論がなぜ『判断力批判』というタイトルの本に入っているのかよくわからないままになる。『判断力批判』は、美学の古典のひとつとされているのだが、美学の話だと思って読むと、後半なぜか生物学の話がはじまってびっくりする。

一方「判断」というキーワードで追おうとしても難しい。『判断力批判』では、判断一般の話はあまりなされていないので、「カントの判断論」みたいな解説を読んでも、『判断力批判』についてほとんど触れられていないのだ。わたしは当初、上記の疑問について調べようと思って、スタンフォード哲学事典の「カントの判断論」を読んだのだが、『判断力批判』の話自体がほとんどなされておらず、余計に混乱してしまった。

だが、改めて調べたら、スタンフォード哲学事典には「カントの美学と目的論」という項目もあって、こちらである程度解説されていた。

なぜ判断一般ではなく、このふたつの事柄を論じるのか

なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。

この疑問は、ある程度までは簡単に答えることができる。というか、これはわりとちゃんと書いてあるので、まじめに読んでいればそれほど迷うようなことではないのかもしれない。

カントは判断力を規定的判断力反省的判断力にわけている。規定的判断力は、与えられた個物を与えられた概念に包摂する能力だ。個物を見て、「これは猫だな」と判断する場合は規定的判断力を使用している。『純粋理性批判』などで論じられている判断は、基本的にこちらの意味だ。

一方『判断力批判』では反省的判断力というものが導入されている。これは、概念があらかじめ与えられていない場合に、個物に対して、概念を発見してくる能力であるとされる。この説明だけだとわかりにくいが、反省的判断力の例としては、科学者が新種の生物を発見して分類する事例などが念頭に置かれているようだ。つまり、単に既存の原理を適用するのではなく、新しく原理を打ち立て、概念を新たに作り出すような場合にはたらくのが反省的判断力ということになる。

規定的判断力の場合、判断は、概念適用の能力である悟性の原理に従い、独立した力を行使するわけではない。一方、反省的判断力の場合は、もっと特別な能力が必要とされる。『判断力批判』は、主として、この反省的判断力の批判をターゲットとしている。

また、カントは、美的判断と、自然の目的論的判断には、どちらも反省的判断力がはたらいていると考えている。つまり、どうして『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般の話ではなく、特別な判断の話をしているかというと、『判断力批判』は、判断が独自の能力を行使しなければならないような、特殊な事例(反省的判断力の事例)を対象としているからだというのが答えにあたるだろう。

なぜ美的判断と目的論的判断なのか

特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか

おそらく、この疑問の答えの一部は、「どちらも反省的判断力がはたらく事例だ」というものになるだろう。また、カントは、美的判断と、自然に関する目的論的判断の両方に対して「自然の合目的性」というキーワードを使っており、おそらく「どちらも自然の合目的性に関わる」という共通点もあるのだろう。

一方、反省的判断力がはたらく事例は、このふたつ以外にもありそうな気もするのだが、なぜこのふたつだけなのか、というとそれはよくわからない。

また、自然の合目的性という語が両者の事例で本当に同じ意味で使われているのかというと、それもよくわからない。「科学者が新種を発見した時に、自然が合理的にできていることを想定しつつ分類する」という事例と、「自然美を感じるとき、自然が秩序をもっているように感じられる」という事例が両方「自然の合目的性」と呼ばれているようなのだが、正直あまり同じ話をしているように見えない。スタンフォード哲学事典の記事によれば、この辺りは解釈者でも意見がわかれており、カントは「自然の合目的性」という言葉をふたつの意味で使っていると考える論者もいるらしい。

Mark Windsor「不安な話」

Windsor, Mark (2019). Tales of Dread. Estetika 56 (1):65-86.

「テイルズ・オブ・ドレッド(不安な話)」(Tales of Dread)は、ジャンル名なのだが、英語でも特にジャンル名として定着しているわけではない。元はと言えば、ノエル・キャロルが『ホラーの哲学』の中で、ホラーに似ているが、ホラーとは区別されるジャンルとして提示したのがはじまりだ。キャロル自身は、ホラーというジャンルを、恐怖と嫌悪を与えるモンスター(ドラキュラや幽霊など)の存在によって特徴づけている。一方、テイルズ・オブ・ドレッドは、「神秘的で、心をかきみだす超自然的出来事」を描くジャンルであるとされる。

おそらく、例をあげた方が早いだろう。ノエル・キャロルは、このジャンルの具体的な作品として、テレビドラマ『トワイライトゾーン』の多くのエピソードや、W・W・ジェイコブズの「猿の手」などをあげている。この論文の著者であるマーク・ウィンザーは、エドガー・アラン・ポーの短篇の多くや、最近のドラマ『ブラックミラー』やデヴィッド・リンチの作品をあげている。日本で言えば、ドラマ『世にも奇妙な物語』や、藤子・F・不二雄の異色SF短篇集に集められた多くの作品や、昔ジャンプで連載していた『アウターゾーン』などはこのジャンルに含まれるだろう。多くの場合、短篇または短篇のシリーズからなり、不気味な出来事が起こって、悲惨な結末で終わることが多い。「三つの願いをかなえるミイラがあって、欲を出して変なことを願ったために大変なことになってしまう」とか、「ある日目覚めたらパラレルワールドにいて誰も自分を覚えていない」とか、そういう類の話だ*1

ノエル・キャロルは『ホラーの哲学』の中で、通りすがりにこのジャンルに触れ、このジャンルはホラーとは別個の取り扱いを必要とするだろうと述べているが、それ以上議論を深めることはなかった*2。そこで、この論文の著者であるマーク・ウィンザーが改めて、このテイルズ・オブ・ドレッドというジャンルをとりあげたというわけだ。ちなみに、マーク・ウィンザーは「不気味とは何か?」("What is Uncanny?")という論文でフィンランド美学会のアーティクルオブザイヤーを受賞した、いわば不気味哲学界のホープであり、本論でも、その不気味論をいかし、不気味感情の面からテイルズ・オブ・ドレッドジャンルを扱っている。

不気味とは何か

マーク・ウィンザーによれば、不気味とは、起きるはずのないと思われる出来事に直面し、何が本当なのかわからなくなる現実喪失の感覚によって生まれる感情だ。

たとえば、物語の主人公が喋る動物に遭遇したとしよう。主人公があっさりと受け入れればただのファンタジーだが、主人公が受け入れず、自分がおかしくなったのではないか? もはや何が現実なのかわからないと不安になれば、その時に喚起される感情が「不気味」だ。

ウィンザーによれば、テイルズ・オブ・ドレッドというジャンルは、この不気味の感情を喚起するジャンルとして特徴づけられる。一般的なホラージャンルを規定する感情が恐怖と嫌悪であるのに対し、不気味さに特化したジャンルとしてテイルズ・オブ・ドレッドがあるというアイデアだ。

基本的なアイデアは以上だが、フロイトの「不気味なもの」論文や、トドロフの『幻想文学論序説』を丁寧に解釈して自分の説との関係を整理していたりなど、細かい部分もなかなかおもしろい論文だ。

*1:ちなみに、W・W・ジェイコブズの「猿の手」が、まさにこの三つの願いをかなえる不気味なミイラの話。これはその後何度もパクられて定番パターンになっているので多くの人が見たことがあるのではないかと思う。ジェイコブズの短篇自体も怪奇小説アンソロジーの定番になっている。

*2:実はキャロルはその後、テイルズ・オブ・ドレッドを扱った論考も書いているようで、ウィンザーもこの論考に触れているが、わたしは未読なのでここでは触れない。

Kalle Puolakka「日常の中の小説」

Puolakka, Kalle (2019). Novels in the Everyday: An Aesthetic Investigation. Estetika 56 (2):206-222.

日常美学(エヴリデイエステティクス)の観点から、小説を読むことの経験を扱った美学論文。当然ながら、コンスタントに小説を読む読者にとって、読むことは日常のルーチンの一部だが、この論文では、ピーター・キヴィの文学の哲学を援用することで、日常(エヴリデイ)の一部としての「読むこと」を扱っている。

元のキヴィの著作は、実際にはこの論文とはまったく別の文脈にある問題を扱う著作なのだが、著者はそれを応用して小説の読書経験の分析に使うという方針をとっていて、ややアクロバティックだが、おもしろかった。

小説を読むことのエヴリデイネスと、読むことのパフォーマンス

現代の読者にとって、小説はひとりで黙読で読むことが当たり前になっている。だが、これは歴史上比較的新しい出来事で、かつては物語は口誦され、複数人で楽しむことが当たり前の時代もあった*1。一方キヴィ(およびこの論文の著者プオロッカ)は、現代の黙読もまた、かつての朗読と同様に、パフォーマンス(上演芸術)の一種として捉える。

黙読をパフォーマンスと捉える理由は、読むことには一種のスキルという側面があるからだ。小説を楽しむには、想像で場面を再現し、小説の内なる声やリズムに自分を調和させる必要がある。小説の読者は、日々のルーチンの一貫として、新しい挑戦に挑み、新しい作家やジャンルを試し、時には失敗し、時には成功する。

さらに現代的な黙読は、孤独で親密な自分のための時間と捉えられる。多くの読者は眠る前に、ベッドの上で、自分だけの密やかな読書の時間を楽しむ。日常のルーチン的な経験には、平凡さとともに、もう少し積極的な意味、例えば災害の際などに失なわれてしまうような、安全や安心の感覚が伴う。コンスタントに小説を読む読者にとっては、小説を読むことは、まさに大切な日常の一部としてのルーチン的な経験の典型と言えるだろう。

つまり、読書は、ルーチン的経験であり、エヴリデイネスの重要な部分を含むが、一方で、しだいに上達し、深化する蓄積的な側面ももっている。この両者の側面を含むことで、小説を読むことは、日常生活の中で重要な地位をえている。

中断しながら読むこと

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

Once-Told Tales: An Essay in Literary Aesthetics (New Directions in Aesthetics)

  • 作者:Kivy, Peter
  • 発売日: 2011/05/17
  • メディア: ハードカバー

また、キヴィはOnce-Told Talesという著作で、小説の読書は中断しながら読むことを前提としているという論点を扱っている。著者は、この中断の経験の積極的な意味についても論じており、日常生活の合間に、中断しながら小説を読むことは、日常生活に独特のムードや雰囲気をもたらすと捉えている。

(キヴィの扱っている中断の話はなかなかおもしろく、もう少し詳しく紹介したい気もするが、長くなったのでこの辺で)

*1:この辺の黙読の歴史の話は、近年は異論もあるらしく、キヴィが著作でちょっと紹介していたが、細かい話は忘れてしまった。

Mark Okrent, Intending the Intender:あるいは、なぜハイデガーはデイヴィドソンではないのか

Intending the Intender: Or Why Heidegger Isn’t Davidson,” in Heidegger, Authenticity, and Modernity: Papers Presented in Honor of Hubert Dreyfus, ed. M. Wrathall (Cambridge: M.I.T. Press, 2000).

ハイデガーデイヴィドソンを比較する論文。たまたま見つけたので読ん だ。 というかachademia.eduにHeidegger in Americaというタイトルでアップロードされていたのだが、これ違う論文なのでは? (読んでから気づいた)

著者によれば、ハイデガーデイヴィドソンの立場は実は類似しており、どちらもデカルト主義に敵対しており、行為との結びつきによって志向性を説明しようとする。

ここでいうデカルト主義は、次の主張を擁護する立場だ。(1)心は実体である。(2)あらゆる心的状態は意識的である。(3)状態は、意識的である場合にのみ志向内容をもつ。(4)意識的心的状態はその表象的性格のために志向的である。(5)心的状態において表象されるものは思考者に透明である。

この立場によれば、心は主体にとって透明であり、心的状態の内容は主に内省を通じて確定される。

デイヴィドソンハイデガーはどちらもこの立場に批判的であった。両者にとって、心的態度に志向的内容を与えるのは、行為との結びつきである。例えばデイヴィドソンにとっては、「今日は晴れている」といった信念は、他の行為や態度、例えば、「だから洗濯物を干そう」といった行為を合理化し、動機づけるかぎりにおいて、はじめてかくかくの信念たりえる。

一方ハイデガーにとっては、志向性の典型は、道具の使用であり、例えばハンマーをハンマーとして志向する際、わたしたちが示す態度は気づかいであり、気づかいを通じてわたしたちは環境や道具や道具の使用目的などと関わる。この態度が世界内存在としてのわたしたちを特徴づけている。

つまり、大雑把に言うと、どちらもデカルト主義を批判し、行為との関わりによって志向性を説明しようとしている。だが、ハイデガー独自の部分として著者は以下の論点をあげる。

著者によれば、デイヴィドソンは行為を扱う際に、目的合理性だけに訴えているが、ハイデガーは別種の規範性も扱っている。それは道具の使用に結びついた規範性であり、道具の「正しい使用法」に結びついたものだ。さらに道具の正しい使用法を参照することで、われわれは自分のアイデンティティも選ぶ。例えば、靴屋の道具を正しく使うことで、ひとは靴屋になる。これらはハイデガー独自の論点だろうと著者は主張する。

エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」

気軽に読んだ小説の感想などをもっと書いていきたいと思ったので書いていこう。

『「幽霊屋敷」の文化史』という本を読んでいたら、ポーの「アッシャー家の崩壊」の話が出てきて、そう言えば読んだ記憶がないなと思ったので読んだ。

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

はじめは青空文庫版のやつで読んだのだが、古い訳で読みにくいし、何かよくわからない話だなと思ったので、下記の訳で読み直したら結構おもしろかった。

「アッシャー家の崩壊」は、とにかく不気味な雰囲気はあるが、何だかよくわからない話で、『「幽霊屋敷」の文化史』でも、「終末のカタストロフに向かって物語が進展するあいだ、これといって何も起こらない」と言われている(p.99)。

しかし、順を追って見ていくと、この短篇は

  1. 無生物も意識をもつかもしれないという話と、アッシャー家の不気味な屋敷がまるで意志をもっていたようであったという話があり、
  2. アッシャー家の屋敷と、代々の子孫には不思議な精神のリンクがあったという話があり、
  3. 当代のアッシャーは精神の緊張の限界にきていたという話があり、
  4. 最後に、陰惨な事件のため、アッシャーの精神に限界がきた。その結果何が起こったか?

という話になっている。繰り返し挿入される「観念が具体物にやどる」というエピソードも含め、ポーは、汎心論めいた「物に心がやどる」テーマに関心があったのだなと伺われる。ちょっとわかりにくいのは、最後の陰惨な事件がただの事故なので、ちょっと拍子抜けしてしまうが、それはあくまでアッシャーの精神が崩壊をきたすきっかけとなった事件で、あまり本題ではなかったのかもしれない(読み直したらそのことに気がついた)。

個人的におもしろいなと思ったのは無機物もまた意識をもつかもしれないという話の箇所で、権威づけのため、当時の科学文献がひかれたりしていて、結構SFチックな内容になっている(ポーがこの小説で使っているアトモスフィアという概念も、当時の科学文献からとったのではないか、という指摘は『「幽霊屋敷」の文化史』でも触れられていた)。この辺をもっとふくらませれば、普通に現代でもSF短篇として通用しそうな話ではある。

アントン・フォード「行為と一般性」

Ford, Anton (2011). Action and generality. In Anton Ford, Jennifer Hornsby & Frederick Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention. Harvard University Press.

この論文では、「行為は定義できない」という立場——より正確には「行為は、単なる出来事 + Xとしては定義できない」という立場——をアンスコムに帰属させ、その立場を擁護している*1

前半では、概念の定義として、「類 + 種差」というタイプの定義が可能になるカテゴリーと、そうではないカテゴリーがあるという話をしている。

例えば、わし鼻は、くぼんだ鼻、つまり「鼻 + くぼんでいる」として定義できる。しかし、これが可能なのは、〈くぼんでいる〉という特徴が、鼻概念とは独立した偶有的特性だからだ。〈くぼんでいる〉という特徴は鼻以外のものに例化されることもあり、鼻概念とは独立に理解可能である。

だが、この種の定義が不可能なカテゴリーもある。例えば赤は色の一種であるが、赤を「色 + X」として非循環的な形で定義することはできない。〈単なる色〉に何らかの条件を付け加えることで赤を定義するのは困難に思われる。例えば、「人間に赤さの経験を引き起こす色」といった定義はできるかもしれないが、これは循環している。同様に、馬は動物の一種であるが、馬を「動物 + X」として定義するのは難しそうだ。伝統的にはもちろん「馬は四足の動物である」といった定義はあるが、これはあまりうまくいっているようには見えない。

同様に、行為というカテゴリーは、出来事の一種かもしれないが、「単なる出来事」というカテゴリーに何らかの偶有的特性を付け加えて、行為というカテゴリーを定義することはできないと著者は主張する。

そのために著者が持ち出すのが「ヒュームの循環」という事態だ。ヒュームの循環は、ヒュームとはそれほど関係ないのだが*2、〈ある行為Xを遂行するための構成的条件にXの概念を持つことが含まれる〉という事態のことだ。例えば、約束、結婚といった行為についてはこれが成り立つように思われる。一般的には、約束するひとは、すでに約束とは何かを知っているのでなければならない。少なくとも、約束という制度が成り立つための構成的条件のひとつには、関係者が約束概念をもっているということが含まれるように思われる。

もちろん、厳密に言うと、約束とは何かをあまりわかっていないまま、約束をするひとがいる可能性はあるのだが、少なくとも〈健全な約束〉や〈約束の典型例〉に話をかぎれば、約束するひとはすでに約束の概念をもっているはずだ。

以上のような循環は約束という概念の定義を困難にする。そして、行為の一種である約束を定義することが困難なのであれば、行為一般というカテゴリーも定義できないのだと著者は主張する。

感想

著者は、〈行為の下位カテゴリーの中にヒュームの循環が成立するものがあるなら、行為一般にもヒュームの循環が成り立つ〉という風に考えているように思われるのだが、ちょっとそこの流れがどういう理屈なのかあまり再構成できなかった。該当箇所の訳を載せておく。

もし行為の本質的種のうちのひとつにおいて、行為者が自分が何をしているのか知っており、かつそれが行為であり、単なる出来事ではないと知っているのであれば、約束の場合のように、〈行為者は自分がその行為を遂行する者だと知っている〉ということが、行為それ自体の本質に属する——ゆえに、行為にも、ヒュームの循環が成立する。 If one essential species of action is the action whose agent knows what she is doing, and that it is an action and not a mere event, then it belongs to the nature of action as such, as it does to that of a promise, that the agent of it knows she is the agent of it—so that action, too, gives rise to a Humean Circle.

あと、ヒュームの循環があると定義が困難になるというのはわかるのだが、定義が不可能になると言われると、そこまで言えるだろうか?というのは疑問(わたし自身は特に強い意見があるわけではないのだが)。例えば、芸術作品というカテゴリーについて、ここでいうヒュームの循環が成立することは多くの芸術哲学者が認めることだと思う(芸術作品を作るにはすでに芸術作品の概念をもっていなければならない)。

しかし、だからと言って芸術作品の定義が不可能だと思われているかと言うと、一般にそういう風には理解されておらず、「だから、制度や慣習を組み込んだ定義を立てなければならないのだ」という風に理解されていると思う。

ただし、これがアンスコムの立場なのだと言われれば納得感はある。例えば、芸術哲学で言えば、モーリス・ワイツウィトゲンシュタインの影響のもとで、芸術作品について似たようなことを述べているし、ピーター・ウィンチも(行為に関して)同じようなことを言っていた。だから、上記のような立場は、当時アンスコムウィトゲンシュタインの影響を受けたひとびとには広く共有されていた考え方だったのかもしれない。

あと、もうひとつ気になったのは、どちらかと言うと、なぜ上記のようなことを主張したいのか、これが言えると何がうれしいのかというがわからなかったので、もう少しそこが知りたいなと思った。

*1:著者は、意図的行為は定義できないという話もしているが省略。

*2:ヒュームがある箇所で「良いことをするためにはまず何が良いことなのか知っていなければならない」という趣旨のことを言っているらしい。