ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます(1)

まえおき

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の翻訳が出ます。出版社の告知ページも出たので宣伝していきます。

filmart.co.jp

たまたまタイミングが合って、ユリイカ2022年9月号 特集=Jホラーの現在にも書いています。

www.seidosha.co.jp

このふたつの仕事が重なったため、すっかりホラーづいており、毎日何がしかのホラー映画、ホラー小説を摂取している夏です。

翻訳出版に合わせて『ホラーの哲学』の宣伝をしていきたいと思います。

紹介

まずは目次。章タイトルなどはまだ仮です。

目次(仮)

    • 本書が置かれた文脈
    • ラージャンル摘要
    • ホラーの哲学とは?
  • 第一章 ホラーの本質
    • ホラーの定義
      • まえおき
      • 感情の構造について
      • アートホラーを定義する
      • アートホラーの定義に対するさらなる反論と反例
    • 幻想の生物学とホラーイメージの構造
    • 要約と結論
  • 第二章 形而上学とホラー あるいはフィクションとの関わり
    • フィクションを怖がる——そのパラドックスとその解決
      • フィクション錯覚説
      • フィクション反応のフリ説
      • フィクションへの感情反応の思考説
      • 要約
    • キャラクター同一化は必要か?
  • 第三章 ホラーのプロット
    • ホラープロットのいくつかの特徴
      • 複合的発見型プロット
      • バリエーション
      • 越境者型プロットおよびその他の組み合わせ
      • 典型的ホラー物語が与えるもの
    • ホラーとサスペンス
      • 疑問による物語法
      • サスペンスの構造
    • 幻想
  • 第四章 なぜホラーを求めるのか?

まじめに紹介しようと思うと大変なのでハードルを下げるために、断片的に紹介していきます。つづくかはわかりませんがなるべくがんばります。

少し前に出た戸田山和久『恐怖の哲学』でも紹介があったので、おそらく本書では最終章のホラーのパラドックスの話が有名だと思います。ホラーのパラドックスというのは、なぜ怖いのに見るのか、普通怖いものは避けるはずなのにどうしてわたしたちはホラーを求めるのかという問題です。

これはこれでおもしろいんですが、ただ、個人的には、ホラーのパラドックスの話ばかりが言及されるのはあまりおもしろくない、本書には他にもおもしろい部分がたくさんありますよという風に思っています。

そういうわけでちょっとずつ紹介していきます。

今日紹介したいのは、一章後半の「幻想の生物学とホラーイメージの構造」の節。怖いモンスターの作り方を分析した箇所です。ここは「カテゴリーを組み合わせて君だけのホラーモンスターを作ろう」みたいな最高に楽しい箇所ですね。キャロルはここで「融合」「分裂」「巨大化」「群集化」という四つのメソッドを紹介しています。

キャロルの意見によれば、ホラーをかきたてるものというのは、カテゴリー的にどこに位置づけて良いのかよくわからない「不浄なもの」「狭間に位置するもの」です*1。この四つのメソッドは、不浄性を作り出したり、強めたりする手法として紹介されます。

融合というのは、人間に馬の頭がついてるとか、そういうやつです。かけ離れた複数のカテゴリーをくっつけるといいですね。

分裂は、時間分裂と空間分裂があるんですが、時間分裂の代表例は人間が狼になるとかです。空間分裂の代表例はドッペルゲンガーです。

巨大化は、文字通り巨大化で、群集化は群れを作るやつです。

巨大化・群集化は、不浄を作るというより強める方なので、元々キモいものを巨大化させたり、群集化させるのが効果的であると薦められています。

正直この辺の手法って、古典的なモンスターホラーではよく見たけど、最近はあまり見ないですね。少し前にネット怪談に題材をとった『犬鳴村』という映画があり、犬鳴村って別に元々はそういう話ではないと思うんですが、映画だとそういう話になってて、個人的には結構好きでした。古典的なモンスター映画が好きなので。

ただ、人間に豚の頭とか犬の頭がついてるやつはシンプルに怖いですからね。現在でも別に無しではないと思います。

本書に出てくるホラー作品の紹介コーナー

以前から個人的に考えていた企画として、本書に出てくるホラー映画、ホラー小説を適当に紹介していくというのがありました。『エクソシスト』とかそういう有名なのもいいんですが、変なやつ中心に。あんまり需要ないと思うんですが、無理矢理解説にくっつけていきます。

栄えある第一回はネイサン・ジュラン監督の『極地からの怪物 大カマキリの脅威』(1957)です。配信とかは無いと思うのでDVDを探してください。2千円くらいで買えます。

ちなみに本作は、どこで出てくるかと言うと、今回紹介したモンスターの作り方の例で出てきます。タイトルを見ればわかるように巨大化のめっちゃわかりやすい例です。極地の氷の中で眠っていた巨大カマキリが復活します。実は50年代にこの手の動物巨大化ものってすごくたくさん作られていて、わたしは個人的にこのジャンルがめっちゃ好きです。

本作が今でも観る価値がある作品かというと微妙なんですが、どういう人におすすめなのかははっきりしています。怪獣映画ファンです。特に初代『ゴジラ』とか、『サンダ対ガイラ』とか昭和の最初の頃のおどろおどろしいやつが好きな人にはおすすめです。怪獣映画として観ると、軍隊と巨大カマキリの対決とか見どころもあってそんなに悪くないです。

これは最初の展開がすごく良くて、最初の場面で「アメリカが誇る最先端のレーダー網!」みたいな感じで、米軍のレーダー網の素晴しさが強調されるんですよね。そのレーダー網に謎の高速飛行物体が検知される、だが、その正体は……という(わかると思いますが、もちろん巨大カマキリです)。ちなみに巨大生物がレーダーにひっかかる場面は、日本の『空の大怪獣 ラドン』(1956)にもあって、この映画が1957年なので、おそらくこの映画が『ラドン』をぱくってますね。

個人的に怪獣映画の魅力って、怪獣というふざけたものが、国家、軍隊、科学というまじめなものと衝突するところにあると思っていて、軍のレーダー網が巨大カマキリに反応するのは、この衝突が感じられて好きですね。

*1:正確に言うと、危険でコワイ、かつ、不浄でキモイという二条件があるんですが、危険でコワイ方は当たり前なのであまり強調されません。

今年のベスト的な

例年、新しいものはあまり読んでいないのだが、今年は比較的新しいものを読んだ気がする(小説限定)。

2021年に出たもので良かったもの

ティーヴンソンは翻訳が出ただけで最初に出たのは19世紀だけど。

ベストは『6600万年の革命』。ピーター・ワッツの『ブラインドサイト』はあまり好きではなかったんだけど、これは本当に好き。何が好きなのかは説明しづらい。

『ネットワーク・エフェクト』はヒューゴー賞受賞おめでとう。このシリーズ大好きなんだけど、「もえもえー」みたいな気持ちで読んでるので受賞にふさわしいのかどうかとかよくわからない。

実話怪談でよかったもの

今年の後半は、『一生忘れない怖い話の語り方』を読んで、ずっと実話怪談ばかり読んでいた気がする。

中でも特に気に入っているのは雨宮淳司の一連の作品だ。

同作者の『怪癒』の解説文にはこうある。「実話怪談で傑作、大作という言葉を使うことが適切かどうかはわからない。だが本書の最後、約70ページをさいて収録された「蛇の杙」は著者渾身の一作であるとともに、実話怪談というジャンルにおいて恐らく今後も名を残す逸話であろうと思う」。

わたしも、雨宮淳司を読むまでは、実話怪談において、傑作、大作というものが存在することを知らなかったと思う。しかし例えば「背中」「撃墜王」(『風怨』収録)、「銀の紐」(『魔炎』収録)、「回廊」(『怪医』収録)などの作品は忘れがたい。実際、実話怪談でタイトルを覚えていること自体めずらしいと思うのだが、これらの作品についてはあまりに忘れがたかったので自然にタイトルを覚えてしまった。

個人的には「背中」「銀の紐」など、少年少女を主人公にしたジュブナイル怪談(そんなジャンルがあれば)が特に好きだが、呪術を扱ったものも独特の味がある。

『アーカイブ騎士団012 幽霊屋敷小説集』(第三十三回文学フリマ東京)

第三十三回文学フリマ東京に参加します。去年11月の文学フリマでは製本が間に合わずパイロット版としてコピー誌を出しましたが、そこにさらに何編かを追加した増補改訂版の『幽霊屋敷小説集』が出ます。

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『幽霊屋敷小説集』表紙

項目 内容
開催日 2021年11月23日(火祝)
場所 東京流通センター 第一展示場
サークル アーカイブ騎士団
ブース オ-12
Webカタログ https://c.bunfree.net/c/tokyo33/h1/%E3%82%AA/12

過去作電子版はこちらからアクセスできます。

目次

○がついているのが増補改訂版で追加されました。

個人的には、ホラーで一番好きな題材と言っても過言ではないくらい幽霊屋敷ものが好きです。題材としてはいろいろやりつくされている感はあって難しいですが、それぞれ色々な方向で新味を出そうとしています。

ちなみにわたしは最近eスポーツと実話怪談にはまっているので、eスポーツと実話怪談にはまっている人が書いた小説という感じになりました。

Greg Frost-Arnold「「分析哲学」の興隆: いつ、どのようにして人々は自らを「分析哲学者」と呼ぶようになったのか

Frost-Arnold, Greg (2017). The Rise of ‘Analytic Philosophy’: When and How Did People Begin Calling Themselves ‘Analytic Philosophers’? In Sandra Lapointe & Christopher Pincock (eds.), Innovations in the History of Analytical Philosophy. Palgrave Macmillan. pp. 27-67.

タイトルは「分析哲学」が括弧に入っているのがポイントで、「分析哲学の興隆」ではなく、「語「分析哲学」の興隆」。「分析哲学」という用語の普及の歴史を追った論文。

目次

  • 1 序
  • 2 動機
  • 3 いつ?
    • 3-1 境界を見る: ネーゲルの記事、最初の教科書、最初のアンソロジー
    • 3-2 反論と応答...および厄介な問題
  • 4 グルーピングに対する当時の正当化
    • 4-1 ネーゲルの正当化
    • 4-2 第二フェーズ。世紀半ばにおける正当化
  • 5 グルーピングに対する抵抗
    • 5-1 初期ケンブリッジ分析学派は第二フェーズにおけるグルーピングの正当化を明示的に拒否
    • 5-2 なぜ「分析哲学」は1950年代まで広まらなかったのか
    • 5-3. なぜイギリス人は最終的には「第二フェーズ」の言語的哲学観を受け入れたのか
  • 6 「分析哲学」の対義クラス(たち)
    • 6-1 「大陸哲学」
    • 6-2 初期の対義クラス
  • 7 結論

著者はこの研究のモチベーションとして次のような考察をあげる。〔ジョージ・エドワード〕ムーアと、カルナップは、どちらも分析哲学の祖のひとりであり、典型的な分析哲学者とされているが、素朴に考えて、このふたりの哲学が似ているようには見えない。カルナップは数理論理学を大いに使用しているが、ムーアは少しも使用していない。カルナップは、哲学は科学の論理学によって置き換えられるべきだとしているが、ムーアの哲学には科学の論理学らしい部分は少しもない。そうだとすると、いったいなぜこのふたりが「同じグループ」とされているのかは大いに疑問ではないか。

これに対し、「いやいや今の目で見るとそう見えるだけで、同時代にはそうでもなかったのではないか?」と言う人がいるかもしれないが、別に同時代にも、この両者を「同じグループ」と考えることはまったく自明なことではなかった、と著者は指摘する。そうだとすると、この両者を同じグループと見なすようなカテゴリーがいったいなぜ普及していったのかは大きな歴史的謎である。

そこで、とりあえず、同時代の人々がこのグルーピングに対してどのような正当化を与えたのか、およびそれに対し、どんな批判があったのかを見ていこうという趣旨。

読むとわかること

読むとわかること

  • 著者によれば、語「分析哲学」が現在の意味で使用されだしたのは1930年代だが、広まったのは1950年前後である。
  • 1930年代
    • 1930年代は、ケンブリッジ分析学派の人々が自分たちの方法の名称として「分析」を使っていた。ただしケンブリッジ分析学派は「分析哲学」「分析哲学者」という言い方はあまりしない。また、「分析哲学」に、論理実証主義などを含めるような用法も見られない。
    • 例外的に今の用法に近いものとして、Ernest Nagelの‘Impressions and Appraisals of Analytic Philosophy in Europe’(1936)という文章がある。これは、アメリカ人のアーネスト・ネーゲルがヨーロッパに留学して、「ヨーロッパの最先端の哲学をアメリカに紹介します!」という趣旨で書かれたもの。ここでは(1)ムーアなどケンブリッジ分析学派、(2)論理実証主義、(3)ウィトゲンシュタイン、(4)ポーランドの論理学者と唯名論者などが、「分析哲学」というラベルでまとめられており、おおむね今の分類に近い。
    • 著者がそういう言い方をしているわけではないのだが、素朴に考えると、ネーゲルの文章は「ヨーロッパの哲学をアメリカに紹介する」という趣旨で書かれたものだったので、イギリスの哲学と、ドイツやポーランドの哲学をひっくるめて──それらの違いにはあまり頓着せず──「分析哲学」というラベルをつけたのではないかという感じもする。
  • 1950年前後
    • 1949年に「分析哲学」を冠した教科書と論文集が出ている。Arthur PapのElements of Analytic Philosophy(1949)、Feigl and SellarsのReadings in Philosophical Analysis(1949)。この辺から、現代の用法とほぼ近いものが定着していく。
    • 分析哲学の特徴は、言語に注目するアプローチだ」と言われはじめたのはこの頃。
    • ただし、本当に「分析哲学」というひとつのグループがあるのかどうかはあやしいというのは、これらの本でも指摘されている。ケンブリッジ分析学派など、言語アプローチを明確に否定する人々も存在する。また、ケンブリッジやオックスフォードの人々は論理実証主義とまとめられるのを嫌がっていた。
  • 本論と関係ない小ネタだがおもしろかったものとして、「分析哲学」と対比して「大陸哲学」を使うのはもっとずっと新しい用法で定着したのは1970年代らしい*1

*1:アングロサクソンの哲学と大陸の哲学を対比するといった用法は当然ながらもっと昔からあるが。

フィクションの哲学のニューウェイブ: エイベルの『Fiction: A Philosophical Analysis』

まえおき: フィクションの哲学の現状

最近出版されたキャサリン・エイベルのFiction: A Philosophical Analysisという著作を紹介したいのだが、最初に「フィクションの哲学」と呼ばれる分野の現状について簡単に紹介しておく。

わたしがやっている分析哲学系のフィクションの哲学という分野は、大まかには形而上学言語哲学系統のものと、美学系統のものに分けられる。

美学系統のフィクションの哲学は九十年代に確立された。もう少し詳しく言うと、九十年代初頭に出た三冊の本、すなわちケンダル・ウォルトンMimesis as Makel-Believe、グレゴリー・カリーのThe Nature of Fiction、ラマルク&オルセンTruth, Fiction, and Literatureの三冊がこの分野を規定している。

詳しく入りこむつもりはないが、この三冊は大まかには同じフィクション観を提示している──ひとことでまとめれば、作品の受け手が採用する態度、想像(ないしメイクビリーブ)によってフィクションを規定する立場だ──大まかには、受け手が、事実としてではなく架空の出来事として受け止める態度を取るよう求められるものがフィクションだよということになる*1。この立場は、デレク・マトラヴァーズによって「コンセンサスビュー」と呼ばれている*2。この三冊の出版以降、(美学系統の)フィクションの哲学は、このコンセンサスビューを中心として展開された。「中心」というのは別に全員が賛同しているというわけではなく、そのブラッシュアップや応用や批判やオルタナティブの提示が行なわれたということだ。

ただし、それも九十年代にはある程度落ちついてしまい、今から振り返ると2000年代や2010年代にはそもそもフィクションの哲学の出版がほとんど無かったように思われる*3

(改めて振り返ると2000年代の英語圏の著作はフィクションじゃなくてナラティブをタイトルに冠した著作が多いのでナラティブが流行っていたのかもしれない)

一方「あ、何か潮目が変わったな」と思ったのは、二年ほど前に、キャサリン・ストックのOnly Imagineが出版された時だ。ストックは立場的には完全にコンセンサスビューの支持者なのだが、この著作は何か新しかった。フィクションの哲学の伝統的なトピックを、作品解釈における意図説・反意図説の話題と結びつける整理も目新しかったし、昔の人が延々と論じていたが、どうでもいいとしか思えないような問題が、一段落であっさり済まされていたりして、ニューウェイブ感があった。ストックは、昔からある立場を組み合わせているので新しさはわかりにくいのだが、やっぱり昔の著作と比べて読むと、ものすごくきれいに整理された感じはある。

ふたりのキャサリン

で、ここからが本題なのだが、キャサリン・エイベルという美学者のFiction: A Philosophical Analysisという著作が出版された。出たのは十月だが、年末年始にようやく読みはじめ、二章まで読んだところで、重要な著作だと思ったのでブログで紹介することにした。

エイベルは、描写の哲学や芸術の定義論などですでにいくつも重要な論文を残している気鋭の美学者だ。フィクションの哲学をやっているイメージは無かったが、 はじめての単著がフィクションの哲学に関するモノグラフになるということで期待していたが、やはりおもしろい。

適当にそれっぽく断言しておくと、少なくともここ十年くらい?の間、フィクションの哲学という分野は、ふたりの「キャサリン」、つまりKathleen StockのOnly Imagineと、Catharine AbellのFiction: A Philosophical Analysisの二冊を中心に展開するだろう*4

コンセンサスビューを確立した三者(四者?)の著作がそれぞれ少しずつ似ているように、ふたりのキャサリンの著作もどこか似ている。ひとつわかりやすい共通点は、両者とも、作品解釈の問題をひとつの中心的トピックに据えていることだ。これはストックの著作が出たときに「今までありそうでなかった整理だな」と思ったのだが*5、エイベルもこの整理に乗ってきたので、しばらくこの傾向はつづきそうだ。ただしふたりの結論は逆で、ストックが極端な意図説(作者の意図を重視する立場)であるのに対し、エイベルは慣習や制度を重視する立場だ。

また、ストックの立場が、細かいアップデートはありつつ、基本的にはコンセンサスビューであるのに対し、エイベルは、コンセンサスビューに似ているが、厳密に言えば違う別の立場を打ち出している。この辺りの違いも興味深い。

だが、両者の最も大きな違いであり、エイベルの著作の特徴にもなっているのは、制度論を全面的に導入したことだ。これまでフィクションの哲学ではあまり見ることがなかった社会存在論の道具立てが使われており──例えばゲーム理論マトリックスが出てきたりして──、新鮮な印象を受ける*6

フィクションの制度

エイベルの本は、日本でも邦訳が出たフランチェスコ・グァラの制度論を全面的に参照したものだ。これは別に「制度というのは一種のフィクションで…」といった話ではなく、ここで「フィクションの制度」と呼ばれているのは、文学の制度とか映画の制度のことだ。

以下この制度論を使ったエイベルのフィクションの定義を、ざっくりと紹介しよう(エイベルのフィクションの定義はかなり難しいし、以下の話はかなり省略しているので、わたしの解説をあまり真に受けず、気になったら直接読んでみてほしい)。なお、エイベルのフィクションの定義論は、実はエイベルの芸術の定義論とほとんど同じ枠組なので、先にそっちを知っていると理解しやすいかもしれない。

エイベルのフィクションの定義は二段構えで、(1)先に「フィクションの制度」というものを定義し、(2)フィクションの制度によって生み出される作品を「フィクション作品」と見なすという構成になっている。

これを逆側から言えば、あるものがフィクション作品かどうかを知りたければ、まずその作品を生み出している制度がどういうものなのかを特定し、次に、その制度がフィクションの制度になっているかどうかを調べればいいという話になる。

ただし、ここが難しいところだが、エイベルの立場によれば、「フィクションの制度」という単一の制度が存在するわけではない。むしろフィクションの制度は無数に存在する。

例がないと説明しづらいので、まずいろいろな制度の例をあげてみよう。

  1. ハリウッド映画の制度
  2. 現代落語の制度
  3. 近代文学の制度
  4. 報道動画の制度
  5. Youtuberの制度
  6. 近代行政制度

これらはどれも、何かしらの規範やルールを共有しているという意味で「制度」と呼ぶことができるようなものだが、これらの制度すべてがフィクションの制度になっているわけではない。おそらく1、2、3はフィクションの制度だが、4、5、6はちがう。

では何が両者をわけているのか。エイベルの立場によれば、制度を規定するのは機能──それがどんな問題を解決しているか──だ*7。一方、問題には複数の解決が存在しうる。1、2、3などの制度は〈ひとつの共通の問題に対する別解たち〉と見なすことができるという点において、共通性をもっている。

では、フィクションの制度が共通して解決している問題とは何か──想像の伝達だ。単に事実を人に共有するのと違い、架空の事柄についての想像を人と共有することは特有の難しさをもっている。エイベルがフィクションの制度と呼ぶのは、この想像伝達の困難を解決するルールや装置をもった制度のことだ。

ざっくりとしたアイデアは以上。細かくは本を読んでほしい。

*1:ただし、個別に詳しく見ると三者の違いは大きい。特に厄介なのはウォルトンで、コンセンサスビューの支持者としてもっとも有名なのがウォルトンであるにもかかわらず、実はウォルトンはコンセンサスビューの支持者ではなく、ウォルトンにコンセンサスビューを帰属するのは単なる誤読であるとも言われる。言われるというか、わたしもその解釈が正しいと思う。が、その話は詳しく入り込むとめんどうなので置いておこう。少なくとも「誤読バージョンのウォルトン」には影響力があるので、誤読だからと言って簡単には無視もできない状況にあるということだ。

*2:Fiction and Narrative。念のために付け加えておくとマトラヴァーズは名前をつけただけで、本人はコンセンサスビューを批判している。

*3:例外はフィクションの認知的価値の分野で、この分野だけは盛り上がっている。それ以外もぽつぽつと出版はあるが、以前ほど盛り上がっている感じはない。

*4:Stockの方は"Kathleen"というスペルなので、カタカナ表記が本当に「キャサリン」でいいのかわからないが。

*5:詳しくは前に書いた紹介記事を参照。

*6:ただ、近年は美学においても社会科学的なトピックや社会存在論を導入するのが流行している印象があり、少し前に出たロペスのBeing for Beautyという著作でも似たような道具立て(ゲーム理論など)は登場していた。なおロペスの本は美学の本ではあるがフィクションは扱っていない。あと、どちらの著作でもゲーム理論は、そんな本格的に使われているわけではないが。

*7:ここは本当はグァラの枠組に沿ってゲーム理論を使う箇所で、ここでいう「問題の解決」は正確には「コーディネーション問題に対する均衡解」。

機械学習と理解は対立するか

(この記事は書きかけでしばらく放置していたのだが、何となく機運が高まったので、公開することにした)

理解とディープラーニングの対立?

現在は第三次AIブームということで、毎日のように、AIやディープラーニングに関連するニュースを耳にする──これはまあわたしが積極的にその手の情報を集めているせいもあるのだが、おそらく関心のない人も、「何かAIがすごいらしい」という話をよく聞くなという印象くらいはもっているのではないだろうか。たとえば最近は、人間が書いた文章とほとんど見分けのつかない文章を生成するGPT-3が話題になっている*1

わたし自身は、最近は仕事でディープラーニングを使うようなこともやっているし、論文を読んだり、自分でディープラーニングのモデルを実装したことも何度かあるので、まあその手の情報に詳しい方だと言っても問題はないだろうと思う──もちろん機械学習の研究者ではないので、あくまでユーザーにすぎないが。ブログで論文を紹介したこともある。

「神経科学に触発された人工知能」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

そんな中、最近気になっている見解がある。

機械学習の発展によって、人間の理解は不要になり、予測だけが求められるようになる」というやつだ。

典型的には、一方の側に理解説明が──人間的なものの代表として──置かれ、もう一方の側に、ディープラーニングやAI、あるいはそれらの技術を利用した予測が置かれ、両者が二項対立のような形で捉えられる。

たとえば、以下のブログ記事などでそういう話題が取り上げられている(リンク先の記事はそこまで単純な意見を述べているわけではないが)。

深層学習は科学に「理解」の放棄を迫るのか?:「高次元科学への誘い」(丸山宏)へのコメント - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

ディープラーニングは「予測」しているか?

この手の見解に関しては、わかる部分もあるような気がするのだが、今のところかなりの違和感を覚えている──多分もう少し言い換えを探るとかして穏当な見解に言い換えれば、主張の大部分は受け入れられるような気もするのだが。

わたしが感じている最大の違和感は「理解っていうのは人間にしかできない事柄なのか?」という部分にあるのだが、先にもっと細かい部分から指摘しよう。

まず、そもそもディープラーニングの実用例は、その大半が予測ではないということは指摘されて良い事柄だと思う。機械学習に関して、何かのブラックボックスに大量のパラメーターを放り込むと、確実な未来予測をしてくれるというイメージをもっている人は結構いるのかもしれないが、そのイメージに合致する実用例って本当にそんなにあるのかというのは疑問だ──これはもちろん、どういう実用例に注目するかで印象が左右されそうだが。

すごく普通のことを言うと、冒頭であげたGPT-3を含め、ディープラーニングのおもしろい適用例の多くはむしろ生成モデルだろう。生成モデルというのは、まあ、画像を作ったり、音楽を作ったり、文章を作ったりするモデルだ。生成モデルもある意味では「予測」をしていると言えなくもないのだが、少なくとも上で述べたような予測のイメージとは違っている。あるいは、多くの人が使ったことがありそうな例で言うと、機械翻訳などもあげられるだろう。機械翻訳は予測だろうか。

したがって、よく考えると、ディープラーニングを「理解ではなく予測」という言葉でまとめること自体、すでにかなり変だと思うのだが、上記のような見解をよく目にするので、何でみんなそんな変なこと言うのかなというのが気になっている。

機械も理解する

上のような二項対立では、予測は機械にもできるが、理解は人間にしかできないという風に前提されているようだ。だが、これは少なくとも、かなり疑わしく、異論の余地のある見解ではないだろうか。もちろん「理解」という語をそういう風に定義して使うことはできるし、歴史的にそういう用法があったことは知っている。例えば、有名なところでは、新カント派の重要概念である「理解」は人間にしかできないものとして想定されていた。

しかし、理解という現象を真面目に捉えようとするかぎり、「理解は人間にしかできない」という規定はどう考えても余計な条件であるし、その立場を維持することは難しいのではないだろうか。

ウィルケンフェルドという哲学者が理解に関しておもしろい論文を書いているので紹介したい(実は元々この論文を紹介したくてこの記事を書きはじめたのだが、関係ない部分が長くなってしまった)。

Wilkenfeld, Daniel (2019). Understanding as compression. Philosophical Studies 176 (10):2807-2831.

詳細は紹介しないが、この論文でウィルケンフェルドは、理解を、有用なかたちで情報を圧縮することとして定義している。例えば「あるひとが述語論理を理解している」というのは、ウィルケンフェルドの定義によれば、適切に圧縮されたかたちで──丸暗記などに頼ることなく──述語論理に関わる証明などをうまく再構成できるように情報を保持している状態ということになる。また、当然ながら「有用なかたち」がどういうものであるかは、文脈によって変化しうる。

おもしろいのは、この定義に従えば、機械にも理解は実現可能であることだ。それどころか、現に近年のディープラーニングモデルの多くは、まさにこの情報の圧縮を明示的に行なっている。例えば、よく使用されるオートエンコーダーなどのアーキテクチャーは、入力情報を有用なかたちで圧縮することを目指すものだ。世界モデルと呼ばれるモデルでは、ビデオゲーム画面などの入力をオートエンコーダーに圧縮させることで、AIに外的世界(ゲーム内環境)のモデルを構築させるが、ウィルケンフェルドのような理解観をとるかぎり、世界モデルは、環境を──少なくともある程度は──理解しているということになる。

実際、現代の深層学習モデルが、対象の「理解」をもたないというのは、かなり無理のある見解になりつつあるのではないかとわたしは考える。BERT(モデルの名前)や、GPT-3が言語をまったく「理解」していないというのはもはや難しいのではないだろうか。もちろん、その「理解」が人間と同程度ではない(あるいは質的に違う)ということはあるにしても。

では、BERTやGPT-3が言語をある程度理解しているとして、その理解は「どの程度」なのか、というのはおもしろい問題だと思う。最近読んだ論文で知っておもしろかったのだが、BERTは、「家は大きい」「人間は家に入る」ということを「知って」いるにもかかわらず、「家は人間より大きい」ということを「推論」することはできないらしい。そういう理解をどう考えるかという問題はあるだろう*2

いずれにしても、深層学習モデルもまた何らかの仕方で対象を「理解」しているのだとすれば、「機械学習は理解を不要にする」といった見解は、少なくとも、単純すぎる見解ということになるのではないだろうか。

でも機械学習モデルはブラックボックスでしょう?

ここで、次のような反論があるかもしれない。仮に、機械学習モデルが何らかの仕方で対象を理解しているとしても、依然として、ディープラーニングモデルの中身はブラックボックスで、結局その「理解」は、人間が対象を理解することに何の貢献も果たさないのではないか。それなら、結局のところ、機械学習が理解を不要にするという見解は正しいのではないか、と。

だが、これに対しては、次のように再反論したい──いや、人間の理解も、そもそもブラックボックスじゃないかと。何らかの対象、例えば述語論理や複式簿記民法を深く理解しているひとが周りにいたとして、そのひとが対象をどのように理解しているか、それもまた周囲の人間にとっては不透明だろう。

つまり、ブラックボックスであることは、機械学習の特性ではなく、人間の理解も含め、理解というものにそもそも備わっている特性ではないだろうか。

対比をするなら、理解と違って、知識や理論は、他人とシェアしやすいようにできている。わたしたちは、本や論文を読んで知識を互いに共有しあったり、理論を他人とシェアすることができる。しかし、理解はそもそもシェアできる対象ではない。

そのように考えれば、理解と機械を対立させる見方はますますよくわからないものになる。機械学習ブラックボックスであることは、AIが理解をもたないことではなく、むしろ理解していることを意味しているからだ。

*1:この記事は書きかけでしばらく放置していたので、今はもうそんなに話題になっていない。

*2:この例を聞いて、全然だめじゃないかと思うむきもあるだろうが、なんでそんなことになってしまうのかというと、BERTはそもそもテキストからの入力だけを使って学習しているので、実際には「家」も「人間」も見たことがないという問題もあるのではないかと思う。

SFマガジン2020年6月号

SFマガジン 2020年 06 月号

SFマガジン 2020年 06 月号

  • 発売日: 2020/05/25
  • メディア: 雑誌

SFマガジン2020年6月号に掲載されていた短篇群がどれも良かった。

英語圏の最近のSF短篇が載ってるのかー。紹介見るとおもしろそうな作品が多いので読むかなー」くらいの気持ちで読みはじめたのだが、読むうちに「あれ、これ、掲載作全部おもしろくないか?」となったので、出ているうちに感想を書くことにした。

劉慈欣「鯨歌」

これはおそらく特集の一部ではないが、『三体』の著者のデビュー作。とある方法を使って、麻薬の密輸をする話。『幼年期の終わり』でも似たようなネタがあったなーと思った(わかりにくいネタバレ)。

P・ジェリ・クラーク「ジョージ・ワシントンの義歯となった、九人の黒人の歯の知られざる来歴」

ジョージ・ワシントンが買った九本の歯の来歴がひとつずつ語られる。魔法が存在する仮想の歴史になっており、九本の歯の持ち主はそれぞれ何らかの形で魔法と関わりをもっている。

主にこの作品の紹介を見て、「なんだそりゃおもしろそう」と思って買った。歴史に奇想とホラ話を混ぜた感じの短篇で、期待通りおもしろかった。ブラックカルチャーと奇想を組み合わせたという点では、以前読んだヴィクター・ラヴァル『ブラック・トムのバラード』などにも少し似ているかもしれない。

アマル・エル=モータル「ガラスと鉄の季節」

鉄の靴を履いた女と、ガラスの山に住む女。呪われたふたりの女が出会う。ガールミーツガールもの。

ゼン・チョー「初めはうまくいかなくても、何度でも挑戦すればいい」

竜になろうとして失敗しつづけていた蛇(イムギ)が、昇天を邪魔した人間を食べてやろうとして、人間の女性に化け、物理学科の院生(女性)に近づく。

前半は伝説風なんだけど、途中から急に現代の話になって、院生と蛇のロマンスになる。これもガールミーツガール。

おそらく今号の表紙のイラストは本作をイメージしたものだと思われる。

今回の特集では、ジェリ・クラークとこのゼン・チョーが好きだった。

わたしは基本的に、人間以外のものと人間の関わりを書いた作品が好きなので、これももちろん大好き。蛇が人間のことがあまりよくわかっておらず、ちょくちょくヘンなかんちがいをしている(院生のことはおおむね僧侶だと思っている)辺りなど、すごく良かった。何ていうか、民話風の想像力と、現代的な感覚を組み合わせたポップな感じで、「日本のマンガとかでこういうのあるな」と思った(九井諒子の短篇っぽいかもしれない)。ゼン・チョーはもっと読んでみたい。

キャロリン・M・ヨークム「ようこそ、惑星間中継ステーションの診療所へ——患者が死亡したのは0時間前」

なんとゲームブック形式。ゲームブック形式と言っても、実際はほぼ直線に読めるけど。