『メタゾアの心身問題』

ピーター・ゴドフリー=スミス『メタゾアの心身問題』塩﨑香織訳、2023年、みすず書房

『メタゾアの心身問題』を読んだ。前著『タコの心身問題』を楽しく読んだのでこちらも楽しみにしていた。年末年始に読んでいたらあっという間に読み終ってしまった。ちなみに「メタゾア」は耳慣れない言葉だと思うが、多細胞の動物がだいたい含まれるカテゴリーらしい。

『タコの心身問題』もそうなのだが、読んでいない人に内容を伝えるのがとても難しいタイプの本だ。どちらも基本的には心の哲学の本といって良いと思うのだが、心の哲学の本と聞いてイメージする内容とはかなり異なっている。何しろ『メタゾアの心身問題』には、「カイメン」「サンゴ」「節足動物」「タコ」「魚」を扱った章はあるが、人間を扱った章は一章もない。しかもかなり多くの部分はそれらの動物の具体的な生態の記述に割かれている。

しかし読むとわかるのだが、これは間違いなく心身問題を扱った本なのである。基本的な筋としては、「意識は進化のどの時点で誕生したのか」「そしてそれは物理的にはどのように実現されているのか」という問題を扱っている。ここで急いで付け加えなければならないのだが、著者は「意識」という大げさすぎる語を避けようとしており、本書の大部分では、かわりに「感じられた経験」や「主観性と行為者性」という言葉を使っている。

基本的には、進化をたどりながら、主観性の起源を追うという趣旨だ。進化を扱う以上は、本来は古生物の話をしなければならないのだが、古生物についてわかることはかなり限定されている。そのため、過去の生物の話も適宜入れつつ、基本的には現生生物を題材に説明している。

独特なのは著者がフィールドで出会った生物たちの詳細な描写が挿入されるところ。前著ではもっぱらタコだったが、本作ではヤドカリやエビも登場する。このあたりは、あまり学術書らしい書き方はしておらず、まるでナショナルジオグラフィックでも見ているような気分になる。文章も素晴しく、筆致は抑制されているが簡潔で美しい。

あまり学術書らしくはないのであるが、一方、動物の生態を詳細に語る必要性については頷ける部分がある。一般的な心の哲学の本では人間の心的生活を扱うが、人間の心に関しては当然ながら多くの人間が大量の知識を有している。ところが、本書で論じられるような動物の心的生活については、そもそも前提となる知識が欠如している。犬やネコなどの身近な哺乳類はともかく、タコやヤドカリに何ができるかについて、ほとんどの人間は何も知らないのだ。なので、それらについて哲学をする前に、生態について詳しく書くことは避けられないと思う。まあそういう正当化は置いておいたとしても、動物の生態の話は単純におもしろい。少なくとも私は本書を読んで、ヤドカリや魚の能力に関して、何度も驚かされた。

肝心の主張の方は、入り組んでいてなかなかまとめづらいが、「主観性を支える検知のシステムと、行為者性を支える行為のシステムはセットで進化した」、「これまで考えられてきた以上に多くの動物が主観性の担い手である」、「それを実現しているのは神経系と脳ではあるが、脳のはたらきは従来考えられてきたものと少し違うかもしれない」などといったことが主張されている。

ひとことでまとめると「人間がほとんど出てこない、いっぷう変わった心の哲学の本」である。

ゲシュタルト知覚について

ゲシュタルト知覚またはアスペクト知覚について自分なりに説明してみる。なぜこの記事を書こうと思ったか。ゲシュタルト知覚の話は、別にそんな難しい話ではないはずなのだが、なぜかピンと気づらいものらしく、理解していない人が結構いるという印象をもっているから。また、あまり丁寧に説明した文章を見たことがないため(どこかにはあると思うが)。なぜ大晦日にそんな文章を書いているのかはよくわからない。

ゲシュタルト知覚とは何か。基本的には〈要素の知覚に還元できない知覚〉と覚えればいい。そのようなものが存在することは、以下のように論証できる。

ウサギ-アヒル

出典

有名なウサギ-アヒル図である*1。この図はウサギのように見えたり、アヒルのように見えたりする。また、ウサギでもアヒルでもなく、単なるインクの固まりのように見ることも可能かもしれない。以下を読む前に、まず自分なりに上の図を見て、ウサギ状態、アヒル状態を行き来してみることをおすすめする。

ゲシュタルト知覚があることを示す論証としては以下のようなものが考えられる。

  • 前提1: ウサギ-アヒル図には次の3つの〈見え〉がある。
    1. ウサギに見える
    2. ヒルに見える
    3. どちらにも見えず、単に線の固まりに見える。
  • 前提2: 前提1における〈見え〉の違いは、知覚の違いである。
  • 前提3: 前提1における〈見え〉の違いは、部分知覚の違いによっては説明されない。
  • 結論: よって、 前提1における〈見え〉の違いは、ゲシュタルト知覚によって説明される。

前提1、2、3を認めた人は、まさにそのことによって、「部分知覚の違いによって説明されない知覚上の違いがある」ということを認めたことになる。ところで定義上ゲシュタルト知覚とは、部分知覚に還元できない知覚のことだった。よってゲシュタルト知覚はあるのである。

もう少し説明する。まずゲシュタルト知覚のような現象が、視覚神経のシステム上どのように実装されているかというのは難しい問題だが、ここではそういう話はしていない。単に「こういう現象あるよね」という話をしている。

以上のような説明を聞いた際、ピンと気づらいというか、何となく戸惑いを感じさせるのは前提1の部分が基本的に内省に基づいてしか確認できないせいもあるかもしれない。「見え方の違い」というのが、フワフワした手応えのないものであるように感じられるのだ。だが、そこをスルーすると、この話はまったく理解できなくなる。というかフワフワしてるように感じられるのは気分の問題なので、「ウサギ状態!」「アヒル状態!」と叫びながら、見え方の違いを10回くらい往復することによって、両者の違いが確実にあることをまず確認してほしい。その上で、ウサギ-アヒル図は、ほぼ全人類が追体験できるものであるし、追体験の仕方もきわめて簡単なので、全面的な懐疑論に陥らずに前提1を疑うのはかなり難しいのではないだろうか。

前提2の部分は、この違いが、知覚の違いであることを述べている。私なりの言葉で言えば、(a)(b)(c)の違いは、まず見え方の違いであるし、視界の中に現われている違いである。これを視覚と無関係な信念や判断の違いと捉えるのは無理があるだろう。信念の違いは、普通視界の中に現われない*2

前提3の部分は、(a)(b)(c)の違いが、「どこかを見間違えている」とか「特定の線が見えていない」という違いではないことを述べている。そうではなく、すべて正しく見えていても、ウサギに見えたり、アヒルに見えたりすることはある。

よくある説明としては、ゲシュタルト知覚を知覚における注意のあり方の違いとして説明する路線がある。だが、それはゲシュタルト知覚の存在と矛盾するものではなく、ゲシュタルト知覚の存在を前提した上で、それに説明を与えようとする試みである。ここではその種の説明に深入りはしない。

少なくともゲシュタルト知覚があるということに関しては、上記の説明で十分だろう。

*1:これはウィトゲンシュタインが使った図として有名だが、ここではウィトゲンシュタインの考えを説明しようとしているわけではない。

*2:認知的侵入と呼ばれる現象があるという主張はもっともだが、認知的侵入というのは信念の違いが知覚の違いを引き起こすという現象であって、知覚の違いなしに、信念の違いが視界の中に現われるという現象ではない

Jonathan Gilmore, Apt Imaginings

ジョナサン・ギルモアのApt Imaginingsを5章まで読んだので紹介する。本書はフィクションの哲学に属するかなり新しめの単著である。主にフィクションに対する感情を主題としている。フィクションへの感情を扱う哲学の本というと、「フィクションのパラドクス(どうして存在しないものに感情を抱くのか)」といった問題などをイメージする人もいるかもしれないが、本書のテーマはその種の古典的な問題ではない。他では類を見ない新しい問題を扱った著作だ。

内容を紹介する前に先に本書の良いところと悪いところを紹介しよう。

良いところ

  • オリジナルな問題を立て、新しい角度からフィクションへの感情を扱っている。
  • 新しい心理学の文献や、新しめの感情の哲学の文献がいくつも引用され、経験的研究が豊富に参照される。先端的な科学文献を参照し、フィクション感情に関する議論をアップデートしようという気持ちが感じられる。

悪いところ

  • わかりにくい。

これは良いところと表裏一体かもしれないが、新しい問題を扱っている分、何がやりたいのかがわかりにくいと思う。最終的にどういう主張が擁護されるのかもわかりにくいので要注意。

内容紹介

では肝心の内容を紹介しよう。本書で擁護される主張は、〈フィクションに向けられた感情と、それ以外の日常的感情のあいだには不連続性がある〉というものだ。ただし、ギルモアは記述的不連続性と規範的不連続性を区別している。

  • 記述的不連続性: フィクションに向けられた感情と、その他の日常的感情は、種として異なる。
  • 規範的不連続性: フィクションに向けられた感情と、その他の日常的感情は、異なった規範に従う。

本書で擁護されるのは規範的不連続性だ。ギルモアは記述的不連続性は否定する。フィクションに向けられた感情だろうと、その他の日常的感情だろうと、神経科学的基盤は同じであり、因果的・記述的な違いはない。そのため、ギルモアはケンダル・ウォルトンのようなフィクション感情は真正の感情ではないという立場には組していない。感情が従う規範に不連続性があると言っているのだ。

規範が異なるというのはどういうことか。ひとことでいえば「感情の適切さに関連する考慮事項が異なる」ということだ*1

説明するために、以下のような事例を考えよう。

私がひとりで暗い道を歩いている。道は暗く、さびしく、怖い雰囲気だ。ちょうどその折、近所で工事しているずしんずしんという低音がどこかから響いてきて、私はいっそう怖くなる。

この事例で、私の恐怖には、部分的に工事の音が関わっている。だが、それは恐怖の適切さとは何の関係もない。低音のせいで恐怖が喚起されること自体は理解可能だが、それによって、道がいっそう危険になったり、いっそう恐るべきものになるわけではない。むしろ近所で工事をやっているのであれば治安の意味ではより安全なくらいだろう。音による恐怖の喚起は、因果的には理解可能・説明可能な現象であるものの、規範的意味ではまったく適切ではない。あえて言えば、音はたまたまた私が感じていた怖い雰囲気を偶然盛り上げただけにすぎない。

一方、ここでフィクションの事例を考えよう。ホラー映画を見ている際、(物語外的な)不気味なBGMのせいで恐怖が高まることはあるだろう。ギルモアの考えでは、これはフィクションに関しては、まったく適切な感情的反応だ。実際、制作者はまさにそのような反応をもたらすためにBGMをつけているのだ。

しかし、考えてみれば、工事の音と、不気味なBGMは変わらないのではないだろうか。どちらも「ある種の音が人間の恐怖を高める」という生理的(?)現象に基づいている。そしてどちらの場合も、音は、少なくとも表面上は、対象の危険性とは何の関係もない。映画『シャイニング』のBGMが怖いとしても、その音楽は、オーバールック・ホテルの幽霊が鳴らしているものではない。

だが、フィクションの場合にそれが許容される理由は、さまざまに説明が可能だろう。ギルモアによれば、フィクションにおいて、BGMを恐怖と関係づけることが許容されているのは、特殊な実践的慣習が成立しているためだ。

フィクションや想像の一部の内容への反応においては──信念や知覚の内容への反応とは違って──、私たちが特定の仕方で感じることが引き起こされたというだけの事実であっても、そのように感じる理由になることが起こりえる。というのは、特定の感情を喚起することで、フィクション作品や命令された想像は、鑑賞者が虚構の対象・想像の対象に、特定の評価的質を帰属させるように仕向けるからである。p.132

要するに、フィクションの場合は「BGMを聞いて怖くなったのであれば、その恐怖を映画の中のモンスターに帰属させていいですよ」規則が慣習的に受け入れられている。怖いBGMの怖さをオーバールック・ホテルの幽霊たちに投影してもいいのだ。この慣習の存在こそ、ギルモアの言う規範の不連続性である。

以上では、BGMを例にあげて説明したが、ギルモアは実際にはかなりいろいろな例をあげている。その中には主役級のキャラクターを美形にすることによって、共感しやすくするという例もあって、なかなかおもしろいがここでは逐一紹介はしない*2

余談

私は昔「図像的フィクショナルキャラクターの問題」という論文を書いたことがある。その中で、マンガやアニメの場合、デフォルメされたキャラクター図像の美的性質をキャラクターに帰属させることが慣習的に許容されていると論じた。今回ギルモアの著作を読んでいて、ギルモアが論じている現象は、私が論じていた慣習のより一般的な説明になっているのではないかと思った。

*1:ちなみに、ギルモアは規範の不連続性を説明するために、近年の理由の哲学の概念を使用している。実際にはそれほど難しい話をしているわけではないのだが、この辺の用語に馴染みがないと本書は読みにくいかもしれない。

*2:美形の例だけ、注で説明しよう。人間は無意識に美形に好感を抱く。そのため主役級のキャラクターを美形俳優に演じさせておけば(あるいはマンガやアニメで美形に描いておけば)、観客は勝手に主人公に共感し、「こいつはいいやつだ」と思い込むのである。美形と〈いい人〉性のあいだには、本来は合理的な結びつきはないが、フィクションの場合、そのような投影が許容されている、という話。

初期分析美学における芸術創造論

ヴィンセント・トマスの"Creativity in art"および周辺の文献をちょっと調べたので備忘録的に残しておく。

Tomas, Vincent (1958). Creativity in art. Philosophical Review 67 (1):1-15.

ヴィンセント・トマスのこの文献に関しては、少し前に出た村山正碩「意図を明確化するとはどういうことか: 作者の意図の現象学」が詳しい。

村山はトマスの論文を、以下の「トマスのパズル」を提示するものとしてまとめている(p.105)。

  1. 芸術制作は芸術家によってコントロールされている。
  2. 行為者が自分の行為をコントロールする典型的ケースでは、生み出したい結果を意識し、目の前の現実がその結果と一致するように作業を進める。
  3. しかし、芸術制作では、芸術家は生み出したい結果を(現実がそれに一致すれば、作品が完成するほど)十分に意識しているわけではない(それが可能なとき、創造的プロセスは終了している)。
  4. したがって、芸術制作は典型的ケースのようにはコントロールされない。
  5. では、芸術制作はいかにコントロールされるか。

以上の問題に対するトマスの回答は、〈芸術家は、自身の目的を明確に述べられないまでも、そこから外れれば「キックされる」ように気づくことができる〉というものだ。

私がこの論文に興味をもったのは「現代でもあまり扱われない制作論・創作論であること」「制作プロセスの内実に踏み込んで論じている」というあたりの理由による。ちなみに、私は村山の論文を読むまでトマスの論文を知らなかったのだが、比較的最近書かれたサーベイなどでも言及される論文なので、超有名とは言えないまでもそれなりに評価されている論文とは言えるかもしれない*1

同時代の反応など

寡聞にして、私はヴィンセント・トマスという哲学者についても知らなかったのだが、訃報などを読むと、少し経歴がわかる。C.J. Ducasseの弟子で、戦後ブラウン大学で活動した美学者という感じのようだ。"Creativity in art"は当時もそれなりに話題を読んだらしく、トマスが批判するDucasseやEliseo Vivasの論文とともにCreativity in the Artsという論文集にまとめられている(現在は入手困難)。トマスにしろ、Ducasseにしろ、Vivasにしろ現在よく知られているとは言いがたい名前だが、掘っていくと、現代の美学ともそれほど変わらない主題を扱っていて、なかなか興味深い。もう少し有名な名前をあげると、モンロー・ビアズリーもトマスに応答している。"On the creation of art"という論文は、この辺りの議論に触れたもので、ビアズリーはトマスの立場を有望なものと捉えていたようだ。

Beardsley, Monroe C. (1965). On the creation of art. Journal of Aesthetics and Art Criticism 23 (3):291-304.

せっかくなのでビアズリーの論文をもう少し紹介しよう。ビアズリーは、作品創造に関する立場として「推進理論Propulsive Theory」と「終局理論Finalistic Theory」のふたつを検討している*2

推進理論: 作品の創造プロセスを制御するものは、創造プロセスに先駆けて存在する。

終局理論: 作品の創造プロセスは、終局的なゴールによってコントロールされる。

終局理論の方は、トマスが批判している立場であり、「ゴールと照らしあわせることによって作品の創造プロセスがコントロールされる」という立場である。一方推進理論の例として、ビアズリーコリングウッドの表出説をあげている。(ビアズリーがまとめたところの)コリングウッドの立場によれば、芸術家は、創造プロセス以前から存在する感情に突き動かされ、作品制作を通じて自身の感情を明確化する。推進理論は「衝動志向説」、終局理論は「ゴール志向説」と呼び換えてもいいかもしれない。

普通に考えれば、トマスの立場は推進理論に分類されそうだが、ビアズリーはトマスを第三の立場に分類し、作品創造を「自己訂正過程」と捉える立場だとしている。ちなみに、村山は明らかにトマスをコリングウッドに近い立場に置いているし、同時代のHausmanもトマスを推進理論に類する立場に分類しているため、この点ではおそらくビアズリーが異端だと思われる。ビアズリーはその上でトマスに賛同し、トマスを拡張するような議論を行なっている。ここではこの立場「自己訂正理論」とでも呼ぼう。

自己訂正理論: 芸術家は作品を作りながら、試行錯誤を繰返し、何度も方向転換を行なう。創造プロセスはこの自己訂正過程によってコントロールされる。

私の理解では、推進理論と自己訂正理論の違いは、〈同じひとつの衝動が制作プロセスをコントロールしつづけているか〉にある。推進理論の場合、衝動は過程を通じて存続しつづけるが、自己訂正理論の場合、芸術家を動かすものは、創造プロセスの過程でコロコロ変わってもいい。一方、トマスは、この論点に関して明確な立場を打ち出していない。トマスが述べているのは「芸術家は、自身の行きたいコースから外れそうになるとキックされるように気づく」というだけなので、衝動が最初から一貫しているかどうかについてはあまり述べていないのだ。そのため、トマスをどう位置づけるかに関してズレが生じているように思われる。

なお、ビアズリーの論文は途中までまじめに制作プロセスの話をしているのだが、最終節でいきなり手の平を返し、「自分は反意図主義なので、制作者の意図の話はしない!」と言いだし、「作品は鑑賞者によって作られる」という話をはじめる。その辺りはやや残念な感じである。

*1:例えばGaut, Berys (2010). The Philosophy of Creativity. Philosophy Compass 5 (12):1034-1046.

*2:Carl R. Hausman, "Mechanism or Teleology in the Creative Process"という別の論文でもほぼこれと同様の整理を行なっているので、これは当時よくある整理だったと考えていいだろう。

Jon Elster, Ulysses Unbound

ヤン・エルスター(『酸っぱい葡萄』*1の人)のUlysses Unboundという著作のIII部が芸術論らしく、ちょっと興味があったので読んでみた。わたしもエルスターのことはよく知らないのだが、エルスターは本業では合理的選択理論などを使って、合理性の哲学を研究している研究者だ。本書でも、芸術作品の制作を「制約のもとでの美的価値の最大化」というある種の合理的プロセスと捉え、さまざまな事例を扱っている*2*3

制約とは何か。エルスターは作品制作における制約の例をさまざまにあげているが、わかりやすいところだと、形式やジャンルによる制約がある。詩における韻律や、俳句の音数の制約などをイメージしてほしい。他にも、「ホラーだから怖い場面を入れなければならない」「子どもむけだから暴力的なシーンは入れられない」といったジャンルによる制約を考えてもいい。

エルスターの考えでは、この種の制約には、作品制作上のメリットがある。というのは、無制約だと、探索すべき可能性の範囲が広すぎて、有益な選択肢を探索できないからだ。自由すぎるとかえって何も思いつかないのだ。そこで何らかの制約を取り入れることで、探索範囲を狭めることにメリットがある。探索には適切なサイズがある。だからこそアーティストは、形式やジャンルを選択し、そこである程度の制約を受け入れてから、その制約内で作品を作るのだ──エルスターは前者を「制約の選択」、後者を「制約内の選択」と呼ぶ。

またこの種の制約には、アーティストが自分で選ぶものもあれば、外から押しつけられるものもある。後者の例としてエルスターはハリウッド映画で60年代くらいまで使用されていた悪名高いヘイズ・コードの例をあげる。ヘイズ・コードは暴力描写や性的描写を厳しく規制していた。こうした規制は、さまざまな問題をもたらしつつも、作品の質を向上させたと言われるような側面もあるらしい。

本書では、この種のケーススタディがいくつか紹介されていて、なかなかおもしろい。

さて、以上がまえおきで、以下では、個人的におもしろかったローカルな極値の話を紹介したい。下記は本書に登場する想像上のグラフである。

ふたつの山があるグラフの画像。左側が小さく、右側の山の方が大きい。
Fig.III.1(p. 203)

エルスターによれば、作品の美的価値には、ローカルな極値がある。まず「小粒だが、完成度の高い作品」というのをイメージしてほしい。単純化して二次元のグラフで考えると、こうした作品は、上のグラフのAのような位置(小さな山のてっぺん)にあると考えられる。これはどういう状態かというと、ブラッシュアップをしつくして、周辺では一番価値の高い状態にあるということだ。ここからさらにジャンプするには、作品を大きく変更して、右側の大きな山に登るなどするしかない。だが、それをやるとおそらくブラッシュアップでは済まない大きな改変になるだろう。

一方「荒削りな傑作」はCのような位置(大きな山にあるが、頂上ではない)にあると考えられる。まだまだ価値を高められるという意味では、改善の余地はあるのだが、それでもグローバルに比較すれば、Aの位置にある小粒な作品よりも優れた価値をもっている。

エルスターはそれぞれ短篇小説と長編小説の例をあげているが、確かに、短篇小説はAのような位置、長編小説はCのような位置を目指すことが多いというイメージはあるかもしれない。また、エルスターはラシーネとシェイクスピアの比較を紹介している。世評では、ラシーネの方が完成度が高く、シェイクスピアには目立った瑕疵がある。だが、にもかかわらず総体としては、シェイクスピアの方が素晴しい、と。こうした評価において、ラシーネはAのような位置、シェイクスピアはCのような位置に、それぞれ位置づけられていると考えられるかもしれない。

*1:

*2:本書では「美的価値」という語が使われているのだが、エルスターは美的価値と芸術的価値を区別しておらず、実際は「芸術的価値」と呼んだ方が適切かもしれない。

*3:本書に対する美学者の応答としてはレヴィンソンによるものがある。以下の本でレヴィンソンはエルスターに対するやや批判的な応答論文を書いている。

Matthew Strohl「アートと苦痛を与える感情」

Strohl, Matthew (2018). Art and painful emotion. Philosophy Compass 14 (1):e12558.

いわゆる「苦痛を与えるアートのパラドックス」に関するPhilosophy Compassサーベイ論文を読んだ。サーベイなのでそれほど期待せずに読んだのだが、思ったより全然おもしろかったので嬉しい驚きがあった。

「苦痛を与えるアートのパラドックス」とは、以下のような苦痛をもたらす作品に関する一連のパラドックスの総称だ。人はなぜわざわざ怖い思いをしてホラーを求めるのか、あるいは、どうしてわざわざ悲劇に接して悲しくなろうとするのか。

ホラーのパラドックスに関しては、『ホラーの哲学』を読んでください。めでたく重刷が決まりました(三刷目)。

このリストはいくらでも増やすことができ、どうしてサスペンスを求めるのかとか、どうしてわざわざジェットコースターに乗るのかという疑問をここに付け足すこともできるだろう。サーベイの中で、ストロールは、ホロコーストのドキュメンタリーで残虐な行為に動揺することや、ノイズミュージックのような不快としか思えない音楽の例をあげている*1。(ポピュラーアートを含め)アートの中では、苦痛をもたらす要素が肯定的に評価されることはありふれた現象なのだ。

だが、個人的には、これらの問題を、「苦痛を与えるアートのパラドックス」としてまとめることにはあまり意味を見出せていなかった。結局のところホラーのパラドックスという問題に答えるには、『ホラーの哲学』の中でキャロルがそうしているように、ホラーというジャンルの魅力を答えるしかない。そして、それはおそらく悲劇の魅力とはまったく別のものになるだろう。ノイズミュージックの魅力とホラーの魅力にそれほど共通点があるとも思えないし、あえて無理やり共通点をあげても、「人間は変わったものが好きだ」くらいの話にしかならないだろう。

したがって、抽象的にまとめても有益なことは何も見えてこないのではないか、と思っていた。

だが、ストロールのこのサーベイはそれとは違った視点を教えてくれた。ストロール自身、「苦痛を与えるアートのパラドックス」に関しては、多元的解決(つまりケースバイケースの解決)が望ましいとしている。しかし、統一的解決が不可能だとしても、ある程度包括的なフレームワークを立てることによって、さまざまな事例を横断的に比較することができる。そのためのフレームワークの提案まで本論の中である程度示されている。

近年の展開

古い文献では、苦痛をもたらすアートのパラドックスの解決は、転換説と補償説のようなかたちで区別されることが多い*2。両者の違いは、前者が苦痛の存在を否定する立場であるのに対し、後者は存在を認めているという点だ。

  • 転換説型理論: 鑑賞者は実際には苦痛を感じていない。悲しみや恐怖のようなマイナス感情は、なんらかの理由でプラスの感情に転換されている。
  • 補償説型理論: 鑑賞者は苦痛も感じているが、鑑賞時になんらかの快も感じている。鑑賞者が感じる苦痛は、快によって埋め合わせられている。

ところが近年は、これにくわえて第三の立場として、「強い背反説」と呼ばれる説が登場している。このサーベイの著者であるストロールもこの立場の支持者だ。

  • 強い背反説型理論: 鑑賞者は苦痛と快の両方を感じているが、その快苦を伴う経験全体を肯定的に受容している。

従来の補償説が快による苦の「埋め合わせ」という提案だったのに対し、強い背反説では、埋め合わせを問題にしていない。少し難しい立場なので、まず、イメージしやすくするために日常的な発想に近づけて説明しよう。私たちはよく「苦労もまた旅行の楽しみ」「苦痛もスパイスになる」といった考え方をすることがある。つまり、一連の経験の中には、快の要素も苦の要素も含まれているが、その両方が存在することによって経験全体がリッチになるという発想だ。強い背反説の発想はこれに近い。苦痛をもたらすアートの場合、作品の鑑賞経験の中に、苦と快の両方が含まれることによって、鑑賞経験がリッチになると捉えるのだ。

この鑑賞経験全体がリッチになるという発想には、いくつかの解釈がありえる。ひとつには「経験全体に高階の快を見出している」という解釈が考えられるし、もうひとつには「快以外の価値を見出している」という風にも考えられる。前者の場合は、強い快の背反説という立場になり、後者の場合は、リッチな経験説という立場になる。

この立場(特に、強い快の背反説)の難点は、苦痛に快を覚えるというある種パラドキシカルな現象を認めなければならない点にある。この点についてはさまざまな論者がさまざまな提案を行なっているが、ここで詳しくは紹介しない(単なる身体的快ではなく、「態度的快」のような特殊な快の概念を導入するものが多い)。

もうひとつ、強い背反型理論には心理学からのサポートがある。メニングハウスらが提案する距離づけ-受容モデルだ(下記図を参照)。

Menninghaus, W., Wagner, V., Hanich, J., Wassiliwizky, E., Jacobsen, T., & Koelsch, S. (2017a). The distancing‐embracing model of the enjoyment of negative emotions in art reception. Behavioral and Brain Sciences, 40, 1–15.

"論文からの引用。図の左側にDistancing Factorとしていくつかの要素、右側にEmbracing Factorとしていくつかの要素が並べられている。"

このモデルは、強い背反説の具体的なメカニズムの提案と見なすことができる。このモデルでは、苦痛をもたらすアートの鑑賞を、負の感情から距離をとるための距離づけプロセスと、負の感情を含む作品全体の経験を肯定的に受け入れる受容プロセスという二種類のプロセスの結果と見なす。ひとつの典型的な事例を考えると、例えば、ホラー作品がフィクションであるという認識によって、恐怖の感情から距離をとることが可能になり、表現の巧みさや、快苦の混合を認識することによって、作品全体の鑑賞に快を見出すという流れだ。

このモデルの長所は、これが包括的なモデルになっていることにある。距離づけを可能にする要因、受容を可能にする要因はそれぞれ複数あるとされる。つまり、「ホラーの場合は、こういう要素が距離づけ要因に含まれる」「ノイズミュージックの場合はこうだ」という形で、理論を整理するフレームワークとしても使うことができるのだ*3

トロールの提案は、このモデルをフレームワークとして使いつつ、ケースバイケースで転換説や補償説も組み合わせて考えればいいのではないかというものだ。これはかなりもっともらしい提案だと思った。

*1:サーベイでは、この問いのいろいろなバージョンを紹介している。その中には、どうして難しいゲームをやるのか、どうして退屈な実験映画を見るのか、どうしてできの悪いB級作品を望んで見るのかなど、かなりバラエティに富んだ研究があっておもしろい。ちなみに、ゲームの例は、ユールの著作でこれには翻訳もある。以前ブログで紹介したこともある。

*2:以下の説明が「なんらかの理由で」とか曖昧になっているのは、この「転換説型理論」「補償説型理論」というのは、具体的な理論ではなく、理論を分類するためのテンプレにすぎないからだ。この「なんらかの理由で」という部分に、「カタルシス」のような具体的なメカニズムを代入することで、具体的な理論になるイメージだと思ってほしい。

*3:元々の論文では、距離づけ要因3つ、受容要因5つをあげているが、ストロールも指摘しているように、ここをさらに増やしてはいけないという理由は特にないように思われる。

当為についてさらに

前回エントリ

道徳的判断は程度を認めない0/1の判断なのか - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

Xで宣伝するのを止めてしまったら、いまひとつ反応がなくてつまらんなと思ったけど、なぜか逆説的にブログを書く気がわいてきた。

前回の記事は、「倫理学ではこういう問題が扱われてきたよね」という話しかしていないのだが、はてブで謎の反応がいくつかあってうけた。タイトルが扇情的でよくなかったかもしれない(なので、非専門家は誰も興味を持たなさそうな「当為」をタイトルに据えてみた)。それはどうでもいいのだが、いずれにしても補足した方がよかったのは、「道徳に関して、ことの軽重・大小をいっさい区別できない」という主張はしていないということだ。「right/wrongは定言的述語である」という主張から、そんな結論は出てこないと思うのだが、明示的にそう言った方がより良かった。

まず一般論として「リンゴ」が定言的概念だとしても、大きなリンゴと小さなリンゴの区別ができなくなるわけではない。right/wrongに関しても、重大なあやまちと小さなあやまちの区別はできるだろう。しかしを大きなリンゴを「よりリンゴであるappler?」と呼んだり、重大なあやまちを「よりあやまちであるwronger」と呼ぶのは文法的におかしい。それだけの話だ。重大なあやまちと軽微なあやまちを区別したければ、単に「重大/軽微」のような別の概念を導入すればいい。ひとつの概念に何でもつめこむことはない*1

じゃあポイントはどこにあるのかというと、後半に書いた価値と当為の区別にある。価値評価をする概念と、当為に関する概念は役割が違うよというのが話のポイントだ。

当為とは何だったか。直接的には「すべき/すべきでない」のことを指す。前回は以下のように書いた。

もっと直観的な言い方をすると、当為に関する判断というのは、何らかのパラメーターが上がったとか下がったとかという評価的な話ではなく、パラメーターの決定が終ったあとの話をしていて、そこからどうやって「すべきこと/すべきでないこと」を決定するかについて述べているのである

個人的にはこの辺の話にかなり関心がある。関連する論文を紹介すると、セリム・バーカーという人が、当為に関して倫理学の領域と認識論の領域を比較する論文を書いている。

Selim Berker, Epistemic Teleology and the Separateness of Propositions - PhilPapers

バーカーによれば、認識論においても、倫理学における帰結主義に相当する立場を考えることができる。これもいろんなバリエーションがあるが、ざっくり飛ばして紹介すると、例えば「真である確率を最大化するような信念を形成すべきである」という立場は、認識論における最大化説の対応物になる。これは行為ではなく、信念に関する当為の理論だ。だが、倫理学はともかく、認識論における最大化説(あるいは最大化説を含む「目的論的」立場全般)はおかしいというのがバーカーの主張だ。

ちなみに、これに関係する論文を以前書いたことがある。この論文のモチベーションのひとつは、倫理学・認識論・美学を横断して比較することだ。この三分野すべてについてある程度詳しい人もあまりいなさそうなので、そういう話はやる意義があるかなと。ただしこの論文では当為の話はほとんどできていない。

<研究論文(原著論文)>スキャンロンの価値の反目的論 | CiNii Research

なお、倫理学、認識論とは違って、美学では当為の問題はあまり議論されてこなかった。しかし近年の美的理由に関する議論は、当為にも関わるものであることは明らかなので、この辺の概念的区分に関心をもっている。そういったわけで、これはひとつ前の記事にも関係する話ではある。

ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

宣言することで自己を拘束する効果を狙って言うが、倫理学・認識論・美学を横断する「理由の哲学入門」みたいなものをそのうち書きたい気持ちがなくもない。

*1:一方で、日本語にはright/wrongに近い語がないので日本語話者にとって、この概念は理解しづらいのではないか、という推測は私の中でより強まることになった。