存在と時間
- 作者: マイケルゲルヴェン,Michael Gelven,長谷川西涯
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2000/10
- メディア: 文庫
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「死」とか「人生の意味」について、自分なりに考えた上で読むといろいろ発見もあるなあと思った。
とりあえず「死を未来の現実として受けとらない」という議論だけ、何とか救う方法を考えたい。
2011/12/13追記
ちょっとえらそうなので言葉使いを修正しました。
しかし言い訳ではないですが、哲学史的な書物はひさしぶりに読んだので、バランス感覚にまよいます。たとえば「可能性」とか「本来性」みたいな概念も、現代の人がこんな使い方をしていたら、キレてもいいところだと思うんですが、そこはチャリタブルに読むべきですよね。
ハイデガーの読み方
「本来的」という概念が、「意識の高い」みたいな根拠なき選民主義的単語としか理解できず、イライラしてしまうという問題があるが、「本来的」と書いてある場所をすべて「合理的」に書き換え、しかるのちに「合理的」の意味内容をハイデガーに合わせて変更するという方法で、だいぶストレスがへることがわかった。
文句
議論がやばいと思ったところにつっこみを入れる。
引用1
我々は経験に興味があるのではなく...在らぬことが可能であるという現存在の一般的な意識に興味があるのである。この意識が究極的な視界を与えてくれるのは、人の死が経験に終りをもたらし、それによって一個の現存在が現に生きる人生を限っているからではなく、死に向っているという意識が人の実存をそのようなものとして限界づけるという意味をもっているからである。
p. 308
うーん、死を意識することによって「全体的視野」がえられるというのだけど、「全体的視野」が未定義のまま。ここはすごくトリビアルなことを言ってるとしかとれないのではないか。
「死を意識することで死を意識することでしかえられないような視界が与えられる」(いや、その視界をもっと説明しろよ)
引用2
たしかに互いに同じ理由のために死ぬという意味でなら、恋人同士とか殉教者とかは死を「共にする」と言われている。それもそういう人々は時には同時に、同じ死に方で死んだりする。しかし、そうしたことは真に同じ死を共有することではない。なぜならば私のみが、私にとって死んでゆくことがいかなる意味をもつかを知ることができるからである。
p. 312
「死をともにする」という表現を文字通りに解釈すべきではない、死は個人的なものであるという議論なのだけど、「しかし」以下は全然関係ないことを言ってるように見える。
これが妥当な議論であるというならば、「しかし、そうしたことは真に同じパーティを共有することではない。なぜならば私のみが、私にとってパーティがいかなる意味をもつかを知ることができるからである」と議論することで、パーティは個人的なものだと結論できてしまう。
「私のみが私にとってXがいかなる意味をもつかを知ることができる」って、おおよそ任意のXについて成り立つような事柄に思えるのだが、なんでこれを死の特殊性を議論するためにもってきたのか。
引用3
この論議をたどってゆけば、当然に、私は私自身の死を恐怖することはできないということになる。(私は何か現実的なものを恐れなければならないわけだが、私自身の死は現実的なものではない。それが現実的になったような時には私はもう恐れることもできなくなっているのだから。したがってそもそも私が死を恐れているというときには、私は誰か他人の死を恐れているわけなのである。)
p. 317
ここはもしかすると、誤解かもしれないけれど、「現実性」は二つの意味で使用されているように見える*1。
まず、死が起きてないから現実的でなく、可能的であるというのは、ちょっとわたしにはなじみのない用法だ。
わたしがよいと考える用法は以下である。
「私は死ぬ」は、現実に真である。従ってこれは現実的な事態である。
一方、「私は教師である」は現実に真でない。現在真でないし、未来も真でないだろう。従ってこれは現実的ではない。ただし私が教師であることは可能である。従ってこれは現実的でなく、単に可能的である。
どう違うかというと、この用法では「現実的」とか「可能的」とかいったときはある時点を境に変化したりしない。現実に真であるようなことは現実的であり、現実に真でないことは現実的でない。そしてある命題が現実に真であるかないかはある時点を境に変化したりはしない。それは無時制的な概念である。
ハイデガー的用法にも意味があると考え、それを「時制的現実」「時制的可能」と呼ぶことにしよう。しかしどちらにせよ、ここでの議論は混乱しているように見える。
- (1)恐怖の対象は現実的でなければならない
といったときは現実性を無時制的概念として使っている。なぜなら、未来に現実に起きる(まだ起きていない)ことを恐れるのは、おかしなことではないのだから。もしここが時制的概念なのだとしたら、将来の空腹を恐れることすらおかしいということになる。
一方、
- (2)死が現実的になるときは私はもう恐れることもできない
といったときは、時制的な意味で使っている。非時制的な意味では、あるものがどこかの時点で「現実的になる」などということはありえないのだから、ここは時制的でなければならない。
「死を恐怖することは本来的でない」という議論は、以上のように「現実的」の二つの意味を混同することで成立しているように見えるのだが。