John Kulvicki「図像の多様性」

Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)Philosophical Perspectives on Depiction (Mind Association Occasional)


Kulvicki, John (2010). Pictorial Diversity. In Catharine Abell Katerina Bantinaki (ed.), Philosophical Perspectives on Depiction. 25.
http://philpapers.org/rec/KULPD

  • 1. 対象、解釈、制作の手段
  • 2. 解釈の多様性 対 制作の多様性
  • 3. 競合
  • 4. 反論: 光と影
  • 5. 反論: 直線的と絵画的
  • 6. 空間: 少ない方が図像的なこともある
  • 7. 多様性の存在を説明する
  • 8. 多様性の不在を説明する
  • 9. 結論

図像は多様なシステムを持つ。空間的形状を描くにしても、線遠近法、キュビズム、逆遠近法では描き方はまったく異なる。写真にしても、通常のレンズを用いるか魚眼レンズを用いるかなどで描写の仕方は異なってくる。
ところがKulvickiはおもしろいことを言っていて、この論文では以下の二点が主張される。

  • 図像を制作する方法がたくさんあるのに対し、図像を解釈する図式はずっと少ない。
  • 互いに競合する解釈図式はない。

私たちが用いる図像解釈の仕方は、線遠近法およびそれと競合しないいくつかの仕方だけであって、それ以外の解釈のルールはないというのだ。
これは反論したい人がたくさんいるだろうが、残念ながら、個人的には明確な反例は思いつかなかった。


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図像を解釈する図式が少ないとはどういうことか。
魚眼レンズで撮った写真を考えてみよう。写っているものは歪んで見える。これが歪んでないと捉えるような解釈のシステムを想像してみることはもちろんできる。変わった解釈のシステムを持つ人には歪んで見えないかもしれない。
同様に、色彩が反転した絵画のシステムを考えてみることはできる。すべての色彩は反転して描かれ、そのスタイルで描かれた絵画では、赤は緑を表す。
しかしそれは実際には使われていない。結局のところ、私たちは魚眼レンズの写真は歪んだものとして受け取る。
先日たまたま以下のようなニュースを見た。
http://japanese.engadget.com/2014/03/30/shiseido/
携帯のカメラで撮った写真は広角レンズのせいで歪んでいるから、補正するシステムを作ったという話だ。ここでも、広角レンズの映像は当然のように「歪んだ」ものとして扱われている。


あるいはキュビズムの絵画を考えてみよう。個々のパーツがバラバラになっているように見える。もちろんそれがバラバラに見えるのは、線遠近法などの基準で見ているからだ。しかしそれがバラバラに見えることは、それらの絵画の芸術的価値の一部だ。それがバラバラに見えない人を考えることはできるが、その人にとってそれはただの普通の絵であって、もはや芸術的価値もないかもしれない。私たちはキュビズムキュビズム的に見ているわけではない。そうした絵画のスタイルが特異なのは、私たちが特異でない解釈図式しか持っていないからである。
つまり、図像の制作の方法はたくさんあるが、図像解釈のためのシステムはずっとバリエーションが少ない。
これは西洋絵画の線遠近法が唯一の解釈のシステムだということではない。例えば輪郭のドローイングと明暗法では解釈のシステムは異なっているかもしれない。
また、時代や文化によってデフォルトの解釈図式は変わるかもしれない。
しかし互いに競合する解釈図式が同時に用いられているわけではない。


解釈図式の競合については以下の二つを区別できる。

統語論的競合
複数の解釈図式が同じ図像を異なった内容に結びつけるとき、それぞれの解釈図式は統語論的に競合する。
意味論的競合
相異なる図像が解釈図式に応じて、同じ内容を表現するとき、それぞれの解釈図式は意味論的に競合する。

Kulvickiによれば、図像に関して、どちらの意味でも競合する解釈図式が用いられることはない。これは図像以外の表象では見られない特徴だ。例えば異なる言語が、統語論的・意味論的に競合することは容易に起こりえる。図像に比較的近いグラフなどの表象でも競合は起こりえる。
Kulvickiはゴンブリッチとウォルフリンの研究を引き、美術史上解釈図式の競合があったと言われる例を検討しているが、どのケースも解釈図式の競合とするにはあたらないとしている。


また、私たちが、どのようにして競合する解釈図式を避けるかについて、Kulvickiは以下のように考える。魚眼レンズ写真のように「歪んだ」表象をする図像は、実際には形に関する情報を捨象したものとして受け取られる。それらの図像は異なった空間表象システムではなく、大まかな形状だけを伝えるものとして理解される。ストレートな表象として理解できない要素は割引かれる。
このようにして図像の一部を内容から除外することは、むしろ多様な図像制作の方法を可能にしている。


また解釈図式の統一性がなぜ存在するのかについて、Kulvickiは一応素描的な説明を試みているが、込み入っている上に決定的な説明でもないので省略する。
論争的でおもしろい論文だった。