小口峰樹「知覚は矛盾を許容するか?」

http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/index

  • 1 はじめに
  • 2 知覚の矛盾許容性
  • 3 錯覚経験の不連続性
  • 4 現象学的特徴づけへの懐疑
  • 5 感覚的分類理論
  • 6 滝の錯視の再解釈
  • 7 結語

知覚は概念的内容を持つかという問いを扱ったもの。非概念主義者によれば、知覚は信念や判断のような、概念によって構造化された内容を持たない。一方概念主義は知覚内容が概念的に構造化された内容を持つと論じる。
この論文では、非概念主義を擁護する議論「知覚は矛盾した内容を持つことがある」に対して、概念主義の立場から応答を試みる。


滝をしばらく見たあと、静止した岩に目を向けると、岩は静止していると同時に動いているように見える(滝の錯視)。このように、知覚には矛盾した内容が含まれることがある。クレインはこうした現象から、知覚内容は矛盾を許容すること、それゆえ知覚が概念的な内容を持つとは言えないことを議論しているらしい。
概念的な内容は、なぜ矛盾した内容を許容しないのか。この論文では、認知的意義の原理という概念の個別化にかかわる原理に訴えてこの問題を説明している。概念が区別されるのは、二つの概念が異なる適用可能性を持つときだ。しかしあるxについて「動いている」「動いていない」をともに適用可能であるならば、「動いている」という概念はそれ自身と異なる概念であることになってしまう。
一方クレインの議論に対して、自己欺瞞とのアナロジーに訴える反論や、そもそも滝の錯視がクレインの言うようなものではないという反論が検討されるが、どちらも不十分なものとして退けられている。


この論文が最終的に持ち出すのは、マッセンの「感覚的分類理論」という立場である。神経処理システムは、刺激を単に受動的に記録するのではなく、分類を行なう。例えば特定の傾きの線によってのみ賦活される細胞、対象の色に選択的に反応する細胞、顔刺激に強く応答する脳部位などが見つかっている。こうした個々のユニットを「特徴マップ」と呼ぶ。特徴マップが処理した個々の感覚的刺激は、特徴統合という処理によって集められる。それによって、例えば、ある対象が特定の傾き、特定の肌理、特定の色を同時に持つことを知覚できる。
ポイントは知覚がすでにデジタルな(選択性を持った)内容をそなえていること、また特徴統合処理によって命題的な構造を持つことである。これは知覚が言語のような統語論的構造を持つことを意味しない。いわんとすることは、命題が持つような合成性などの特徴を持つということだけである。
この立場を滝の錯視に適用するとどうなるか。位置を処理する特徴マップと、運動方向を処理する特徴マップはそれぞれ別個に処理されていると考えられる。滝の錯視で起きているのは、運動が起きているという刺激と位置が変化していないという刺激の組み合わせである。しかしこの特徴マップ上の処理において、運動があることは位置が変化することを含意しない。それが矛盾するのは、知覚内容が信念に組み込まれ、「運動は必ず位置変化を伴う」という背景信念と結びついたときである。滝の錯視は知覚のレベルでは、そもそも矛盾していないのである。


コメント:
位置の変化を含意しない「運動」の概念がいかなるものであるか解釈に悩む。この場合、知覚が概念的内容を持つといっても、私たちになじみのある概念ではなく、神経情報処理における「概念的な特徴を備えた何か」ということになってしまうような気がするのだが、それでいいのかな。
運動マップが伝えるものは、私たちが日常「運動」と呼ぶものとはかなり異なっている(位置の変化と関係のない「運動」概念は自然言語上のそれとはもはや別物だろう)。それで本当に知覚の概念的内容を救ったことになるかは気になるところだ。