哲学の初学者にありがちな間違い

哲学の初学者にありがちな間違いのひとつをこの間思いついたので記しておく。哲学の場合、初学者ほど他の哲学者が素朴に見えるという現象がある気がしている。
例えば、プロの哲学者が何らかの原理Xみたいな前提を使うとしよう。
しかし初学者にはなんでこのXを認めないといけないのかがよくわからないので、Xを認めることが素朴に見える。非合理的な信仰やドグマのようなものにすら見えるかもしれない。
もちろん筋から言えば、Xを前提する側がXを使う理由を説明した方がいいかもしれない。しかしひとつの論文のなかで、すべての前提を説明することなどできないので、ごく標準的常識的な事柄であれば、特に議論なく前提するだろう。
もちろん本当にドグマであるケースもあるだろうが、ここで考えているのは、Xを擁護する議論が別のところでなされていたり、合理的な理由があっても、初学者はそういう事情を知らないので素朴に見えるというケースだ。


ここで難しいなと思うのは、「Xを前提する」とはっきり書く人より、適当にごまかして暗黙のうちにいろんな原理を使う人の方が素朴じゃなく見えることがあるということだ。もちろん一定訓練を受けた人だとごまかされないので、「いやこれ書いてないだけでこういう前提使っとるやんけ」と気づくのだが、初学者だとなかなかそうはいかないことがある(一応専門家を信頼しているので初学者に限定するが、まあたまに専門家でもあやしいことがある)。


これは特に形而上などで顕著に思う。というか正直分析形而上学の議論ってめちゃくちゃ素朴に見えるだろうというのはよくわかる。その背景として、以下のような事情は指摘できるかもしれない。
例えば「現実についての探求は概念や認識や言語の探求を通じてなされなければならない」という、ある時代まで哲学者が暗黙のうちによく用いていた前提がある。名前がほしいので、とりあえずこれを認識ベッタリ説と呼ぼう(これもう少し説明しないと非常にわかりにくいが、認識論と形而上学が一体化したような形での探求の進め方くらいのニュアンスで受け取ってほしい)。
多くの分析形而上学者は、存在や現実についての探求は、認識論の問いからは独立だと考えるので、認識ベッタリ説には明示的に反対すると思う。もちろん本当は認識ベッタリ説を明示的にとる形而上学も全然ありえるのだが、とりあえず話を簡単にするために、「認識ベッタリ説に明示的に反対する形而上学者」「認識ベッタリ説を暗黙にとる初学者」という軸で考えよう。
認識ベッタリ説を暗黙のうちに前提する初学者にとっては、これに明示的に反対する側は素朴に見えるかもしれない。
しかし問題は、これがあくまでも暗黙の前提に依拠した判断だということだ。実際認識ベッタリ説は、明示的に擁護しようとするとかなり難しいし(まずこれが正確にはどういう意味なのか述べることすらかなり難しい)、きちんと定式化したときに本当に説得力のある立場になるかはきわめてあやしいと思う。そして少なくとも一部の形而上学者は、ある程度明示的にこれに反対し、認識の問いと存在の問いは切り離せるという議論をしてきた。もちろんそれは決定的な議論などではないし、認識ベッタリ説に一定の魅力があるのはわかるのだが、少なくとも、暗黙のうちに認識ベッタリ説を前提する方が洗練された態度だという判断はおかしい。
しかし初学者がそういう罠にはまってしまうこともよくわかる。


まとめると、これは自分のカードを切らないかぎり自分を強く見せるのは簡単だ、というよくある話だ。実際は強いと信じているのは自分だけで、周りは事情に気がついていても、わざわざ指摘するほど親切ではない、ということもよくある。