心理学用語のclosureは「閉合」が定訳のようなのでそれに合わせる。
- Carroll, Noel (2007). Narrative closure. Philosophical Studies 135 (1):1 - 15.
http://philpapers.org/rec/CARNC
物語的閉合[narrative closure]とは、物語のまとまりのことだ。物語が完結していると受け取られるとき、そこには物語的閉合がある。余分に続いたり、早く終わりすぎてしまうとき、物語的閉合はない。例えば、北斗の拳はラオウを倒したあともつづくが、そこで終わった方が物語的閉合を実現できたかもしれない。華々しくライバルチームが登場したのにライバルチームとの対戦の前に終わってしまった打ち切りマンガには物語的閉合がない。
物語的閉合は物語の必要条件ではない。物語的閉合がない物語はたくさんあるし、物語的閉合がないけど価値のある物語もある。サザエさんやドラえもんのように延々と続く作品には物語的閉合がないし、実験的な小説で物語的閉合をあえて避けることもある。
ただし物語的閉合は物語のおもしろさの重要な部分であり、ここでは、私たちが自然と完結してるように感じる物語とそうでない物語の違いに関心がある。
キャロルは物語的閉合を疑問と答えの組み合わせとして捉える。物語を読むとき、私たちは様々な疑問を抱く。主人公たちの冒険は成功するか? 恋する二人は幸せになれるのか? 犯人は誰か? これらの疑問すべてに答えが与えられたとき、物語は自然に終わることができる。
キャロルは、物語がその筋の大部分またはすべてを費やす疑問を主導的大疑問と呼び、それに答えることで大疑問に部分的に答えられるような疑問を小疑問と呼んでいる。疑問は大疑問と小疑問の階層構造をとる。RPGなどで、敵のボスを倒すためにはまず隣の街へ行かねばならず、隣街に行くには盗賊のアジトへいって鍵を得なければならないといった例がこれにあたるだろうか。
物語的閉合はいかなる意味で「物語的」か。キャロルは物語的関係を因果関係によって定義する。出来事の因果的つらなりが物語の主要な部分をなす。キャロルの言う疑問と答えは出来事の因果的つらなりの中で生じてその中で解決されるから、物語的と呼ばれる。
感想:
疑問と答えという構造はいろいろな例に当てはまるからいいんだとキャロルは言うが、汎用的すぎて説明になっていない気がする。
ミステリーのように最初に謎が提示されてそれが解決されるという場合は、それを疑問と答えの構造で捉えることは自然だ。しかし例えば「竜のスマウグを退治してドワーフの故郷を取り戻す」のように、主人公たちが特定のプロジェクトに取りかかり、それが終わったところで物語が終わるという事例を、疑問に答えが与えられたとするのは違うようにも思う。
「謎→解決」「トラブル→解決」「不安な予感→破局」「特定のプロジェクトの開始→終了」のように人間が自然にまとまりとして認識する出来事のパターンがあってそれが物語の自然な終わりを構成すると考えるだけでよい気もする。
以前紹介したVellmanの「物語的説明」ではそういうパターンを感情のリズム[emotional cadence]と呼んでいる。なおキャロルはVellmanの論文も参照していて、Vellmanが説明しているのは物語的閉合なのに、それを物語の定義と混同していると批判しているが、そこはその通りかもしれない。
J. David Vellman「物語的説明」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
余談だが、会話分析の創始者のひとりであるハーヴェイ・サックスの「子どもの物語の分析可能性」がこの問い(物語が自然に終わることができる場所はどこか?)に触れていて、これも興味深く読んだ(本当にちょっと触れてるだけだけど)。
- Sacks, H. (1974) "On the Analyzability of Stories by Children," in R. Turner (ed.) Ethnomethodology, Penguin, Harmondsworth, pp. 216–232.