Bernard Williams「物語としての人生」

死後に発表されたもの。口頭で喋ったものらしい。おもしろかったし、マッキンタイアを最大限好意的に解釈した上で批判する辺りは見事。
http://philpapers.org/rec/WILLAN-2
Williams, Bernard (2009). Life as narrative. European Journal of Philosophy 17 (2):305-314.
マッキンタイアは翻訳があるようだ。
美徳なき時代美徳なき時代

Williamsはマッキンタイアの物語としての人生というアイデアを批判的に検討している。

マッキンタイアは物語としての人生というアイデアを三つのレベルで適用している。

  • 1. 行為の理解可能性。行為は物語的場面に置かれることによって理解可能になる。
  • 2. 生きること。生きることは物語をつむぐことである。私は何をするべきかという問いに答えるには、まず私がその一部であるストーリーは何かという問いに答える必要がある。
  • 3. 人生。人生全体の統一は物語によって与えられる。人生全体の統一は、統一された物語を求めんとする探求によって与えられる。

またマッキンタイアによれば行為の物語構造は、詩人や劇作家や小説家の語りに先立つ。
Williamsの解釈によれば、これは事実がフィクションに対して優先するという意味か、または人々の素朴な語りが巧みな語りに優先するという意味で捉えられるべきだ。少なくとも、マッキンタイアはフィクションの物語をモデルに人生を考えようとしているのではなく、いかなるフィクションにも先立つものとしての物語を考えようとしている。Williamsはこの原初的な物語のアイデアがどこまで擁護可能なものであるかを検討している。


まず、マッキンタイアの意図はどうであれ、人の観念や存在は物語の観念に先立つ。なぜならば、私たちは、1ペニー硬貨の概念を持たないかぎり、あるストーリーが1ペニー硬貨についてのストーリーであることを理解できないだろう。同様に、人とは何であり、人が生きるとはどういうことかを知らなければ、あるストーリーが人の人生についてのストーリーであることを理解できないだろう。
さらに、人生の一貫性についてはどうか。これについても同様に、私たちがすでに人生の一貫性について理解していなければ、人生の物語の一貫性を理解できないのではないかという批判が向けられうる。しかしこの批判は、物語としての人生というアイデアにとっては致命的だ。この場合、物語は人生に一貫性を与えるのではなく、他から一貫性を持ってくるだけになってしまう。


Williamsは、マッキンタイアはいくつか譲歩を認めれば批判に答えられるだろうと言う。まず、人や基礎的な行為などの概念は、物語に先立って理解されていなければならない。物語を通して理解されるのは、ある程度複雑な文化に関わる行為だけである。
人生の一貫性については、様々な素材を集め、そこに一貫した物語を見出していくといったプロセスとして理解できる。物語が人生に一貫性を与えるとは、人が自分の人生を一貫した物語として解釈していくということだ。このように考えるなら、物語の理解に先立って、一貫性を別のところから持ってくる必要はなくなる。


ここで重要な問いは、この人生全体の物語的解釈がどこから来るかである。人生を振り返ることは懐古的にしかできないが、人は未来に向かって生きる。私は自分の人生の結末を知ることはできないし、自分の人生全体を見渡して解釈できるような立場にはない。つまり、人生全体の解釈は、他人にはできるかもしれないが、自分ではできない。そうなると、私が生きることと、私の人生の物語の関係はどうなるのか。
ところがマッキンタイアはこの重要なポイントで、フィクションとのアナロジーに頼ってしまう。
Williamsによればこのアナロジーは成り立たない。フィクションの場合、結末はすでに用意されている。フィクションの物語に見られるような一貫性は私たちには得られないものである。
従って、人生の全体的統一は、自分自身にはアクセスできないものであるか、そんなものは無いかのいずれかである。


感想:
物語の統一性みたいな話は難しいな。
マッキンタイアも何を言ってるのかよくわからなくて大変そうなのだが、Williamsの批判にも反論の余地はあるように思った。

Williamsは、統一性は、懐古的に全体を見渡すことでしか与えられないと前提しているようだが、ここはまだ疑問の余地がありそうだ。フィクションなら結末によって統一が与えられるという前提もいくらでも例外がありそうだし。