フィッシュ『知覚の哲学入門』のクオリア説のあたり

知覚の哲学入門知覚の哲学入門


待望の知覚の哲学の教科書が翻訳された。
とりあえず読んだんだけど、思ったより難しく、流し読みだけでは未消化だった。
とりあえず最初読んでよくわからなかったあたりを整理していこう。


3章副詞説のところで、クオリア説に親和的な副詞説と、そうではない副詞説があるという話が出てくる。ここは結構難しく、最初読んだときはちんぷんかんぷんだった。まず、クオリア説自体がどういう立場かわかりにくい上に、現象的性格と現前的性格の区別も難しい。


なんでこの箇所が難しいかというと、普通クオリアは「赤さの感じ」みたいなものだと説明されるけど、この本の説明では赤さの感じという言葉が出てこないのもある。
まず、以下の二つが区別されている(pp. 26-27)。

現前的性格[presentational character]
知覚ないし内観において私たちが気づく[aware]もの。クオリア説の支持者が「クオリア」と呼ぶもの。
現象的性格[phenomenal chacacter]
経験の性質であり、経験がどのようなものであるかに基づいて経験のタイプを決めるもの。

クオリア説では、現象的性格と現前的性格は一致するとされる。つまり、感覚される性質が経験の性質である(p.57)。


しかしなんでこれがクオリア説なのかよくわからない。あとそもそもこの説明を見ても「現象的性格」が何なのかよくわからない。
よくわからないので、「現象的性格」の定義で参照されているByrneの論文を軽く見てみた(ページ数はWeb上にあったドラフトのもの)。
http://philpapers.org/rec/BYRDPT

経験の現象的性格は例をあげることで紹介できる。砂糖を味わう経験は、レモンジュースを味わう経験と現象的性格に関して異なる。熟れたトマトを見る経験は未熟なトマトを見る経験と現象的性格に関して異なる。あなたの経験と双子地球における対応者の経験は同じ現象的性格を持つ。インバートとノンバートが「逆転スペクトル」を持つなら、インバートのトマト経験はノンバートのトマト経験と現象的性格に関して異なる、等々。ここでの用法について言えば、経験の現象的性格は経験の性質である。時に「クオリア」を同じ意味で用いることもあるが、時にはそうではない。
p.2

以下のように規約することが最善だろう。経験eの現象的性格は性質であり、もっといえばeの性質である。eを経験することがどのようであるかに基づいて、eのタイプを決める性質である。
p.11

これは難しい。多分普通「クオリア」と呼ばれるようなものを、現前的性格(内観で気づくもの)と現象的性格(経験の性質)にわけているのだろう。で、クオリア説を、改めて「現象的性格に内観で気づける」という説として捉え直しているということかなと思われる。


この方針で読むと何となくわかった。
まず、副詞説がクオリア説ともっとも相性がよいとされるのはなぜか。なぜならば副詞説は、赤いものを見るという知覚を、「赤く[redly]感覚する」という感覚のあり方と見なすからだ。普通に考えれば、ここでは赤さの感じ(現前的性格)と、経験の性質が一致する。
一方センスデータ説では、まず赤さの感じ(感覚的性質)は、センスデータが持つ性質である。他方で、経験の性質の方は、センスデータDを感覚しているという性質になるらしい。後者は現象的性格だけど、内観で気づけるとはかぎらない。


ただし副詞説は、非クオリア説をとることもできる。副詞説は、現前的性格と現象的性格は別だと主張してもよい。非クオリア的副詞説だと、現象的性格は〈赤く感覚していることであること[being a sensing redly]〉という性質になる(p.58)。
この箇所の注4も最初まったくわからなかった。ここでは、非クオリア的な副詞説で現前的性格(内観で気づくもの)が何になるのかという話が論じられている。
ここはおそらく、センスデータ説とのアナロジーから、「感覚の対象の性質が現前的性質である」という方針で考えるとどうなるかという話をしているのだと思われる。非クオリア的副詞説だと、感覚の対象の候補になりそうなものは外的対象しかない(そもそも感覚の対象を措定しないことが副詞説のメリットだからだ)。しかしそのように考えると、白いものが赤く見えるという錯覚の場合、現前的性質は(見えていないはずの)白であるという変な話になってしまう。