Clayton Littlejohn, John Turri編『認識規範』
Epistemic Norms: New Essays on Action, Belief, and Assertion
序文だけ読んだ。ちょっと高いけどkindle版が書籍版の判型に合わせてあるタイプだったので、kindle版おすすめ(ページ数がわかる)。
収録論文
- 1: Berit Brogaard: Intellectual Flourishing as the Fundamental Epistemic Norm
- 2: E. J. Coffman: Lenient Accounts of Warranted Assertability
- 3: Juan Comesaña and Matthew McGrath: Having False Reasons
- 4: Jonathan Dancy: On Knowing One's Reason
- 5: John Gibbons: Knowledge versus Truth
- 6: Jonathan L. Kvanvig: Epistemic Normativity
- 7: Clayton Littlejohn: The Unity of Reason
- 8: Duncan Pritchard: Epistemic Luck, Safety, and Assertion
- 9: Ernest Sosa: Epistemic Agency and Judgment
- 10: John Turri: You Gotta Believe
- 11: Matt Weiner: The Spectra of Epistemic Norms
- 12: Daniel Whiting: Reasons for Belief, Reasons for Action, the Aim of Belief, and the Aim of Action
- 13: Sarah Wright: The Dual-Aspect Norms of Belief and Assertion: A Virtue Approach to Epistemic Norms
以下序文の内容のまとめ
主張の知識ルールについて
近年の認識規範の研究は、だいたいウィリアムソンの主張の認識規範の研究に触発されている。
そこでは、「pと知っている時にかぎり、pと主張せよ」という規範が、主張の従う認識規範であるとされ、しかもそれが主張という行為の構成規則であるとされる。ただし認識規範と構成規則という規定にはずれもある。認識規範は行為に義務を課すが、構成規則は義務を課さないように思われるから。ウィリアムソンは知識ルールがこの両方の役割と果たすと見なしている。
またウィリアムソンの知識ルールに関する反論は、それが厳しすぎるという点にある。よい証拠のもとで合理的にpと信じていたならば、pが偽であったとしても義務は果たしているのではないか? 知っていることだけ主張せよというルールは、厳しすぎて従うことができないものではないか?
一方、ウィリアムソン側からすれば、この反論はルールや義務に関する誤解に基づいている。信号に関するルールは、「信号が赤い時は止まれ」であって「信号が赤く見える時は止まれ」ではない。多くのルールは、われわれが必ずしも内的にアクセスできない事実に基づくものだ。
信念の知識ルールについて
認識規範の研究が重要な理由のもうひとつは、それが認識の正当化に関するこれまでの論点をくつがえすからだ。ウィリアムソンは主張に関する知識ルールだけではなく、信念に関する知識ルール(知っていることだけを信じよ)も保持する。
一方、従来の認識論の常識では、知識ではない信念も正当化されうる。例えばゲティアケースでは、信念は正当化されているが知識を構成していない。ところが、「pと知っている時にかぎり、pと信じよ」というルールが信念の認識規範であるとすると、知識を構成しない信念は認識論的義務を果たしていないことになる。正当化を義務論的な意味で使うならば、ゲティアケースの信念はそもそも正当化されていないことになる。
多くの認識論者はこの結論に反対するが、信念についての知識ルールを否定するか、正当化についての義務論的考え方を捨てるか、正当化と知識の関係を考え直す必要がある。
知識と行為
また、認識規範の問題は行為と実践的推論にとっても重要だ。Hawthorne and Stanley(2008)は、知識は、行為と実践的推論において中心的役割を果たすとしている。ex. 「それが清潔であると知らないならば、医者はそのメスを使うべきではない」。あるいはくじが外れることを知らないなら、くじが外れるという前提で行為を選択すべきではない。
ところが、もしこれが正しいなら、pと知らない場合、何をなすべきかに関する実践的推論でpという信念を用いるべきではない。知識未満の信念は理由を与えられない。
しかし一方で、信念の理由に関しては、pと知らない場合でも、pについての信念が正当化されていれば、pを理由にして何かを信じていいとされてきた。そうなると、実践的推論ではpの知識が必要だが、信念の推論ではpの信念でいいというわけのわからない話になる。これは受け入れられないので、規範の評価にあたって、正当化や知識の関係を考え直さないといけないかもしれない。
一方、Velleman(2000)のように、信念が知識を目指すということを否定する論者もいる。反対に、Unger(1975)によれば、pと知らないならば、pという理由によって行為することも、信じることも感じることもできない。この立場によれば、知識を構成する信念だけが、理由を与えることができる。
文献
序文で参照されていたものをあげてみた。
- Williamson, Timothy (2000). Knowledge and its Limits. Oxford University Press.
- 知らないことは主張してはならない。知らないことは信じてはならない。
- Thomson, Judith Jarvis (2008). Normativity. Open Court.
- 規範に関してウィリアムソンに反対しているっぽい。
- Sutton, Jonathan (2007). Without Justification. Mit Press.
- 知識と正当化の関係を考え直そう。
- Hawthorne, John & Stanley, Jason (2008). Knowledge and Action. Journal of Philosophy 105 (10):571-590.
- 知らないことに基づいて行為してはならない。
- Unger, Peter K. (1975). Ignorance: A Case for Scepticism. Oxford University Press.
- 知らないことは理由にならない。
- Hyman, John (1999). How knowledge works. Philosophical Quarterly 50 (197):433-451.
- これも知識と理由の関係に関するもの。
- Velleman, David (2000). On the aim of belief. In , The Possibility of Practical Reason. Oxford University Press. 244--81.
- 信念は知識を目指さない。