Stefano Predelli「私は今ここにいない」

http://philpapers.org/rec/PREIAN
Predelli, Stefano (1998). I am not here now. Analysis 58 (2):107–115.

指標詞に関する標準的な理解では、「私は今ここにいない」は決して真になることがない文だとされる。「私」「今」「ここ」はそれぞれ発話者、発話の時間、発話の場所を意味するのだから。もしそれが真になることがあれば、私は発話の場所か発話の時間にいないことになる。
ところが、「私は今ここにいない」の使用が真であるケースがある。録音機や筆記の場合だ。例えば「私は今ここにいない」とメモに書き置きしておいた場合、それは真かもしれない。ということは、標準的な説明のうちのどこかの部分がまちがっている。

  • (a)英語の「私」「ここ」「今」という表現の意味特性[character]では、それらの表現の文脈cでの指示対象はそれぞれcの行為者、cの場所、cの時間である。
  • (b)「私」「ここ」「今」の発話の指示対象は、それらの表現の意味特性を、発話ないし筆記の文脈に適用することによってえられる。
  • (c)発話者はつねに発話の時間、発話の場所にいる。
  • (d)発話者はつねに発話の時間に存在する。

(a)から(c)を認めれば、「私は今ここにいない」は決して真になることはない。(d)を認めれば似たような表現「私は今存在しない」も真になることはない。
しかし「私は今ここにいない」の真な使用があるので、どれかは間違っている。


とりあえず、筆記や録音を残した状況をエンコードの状況、筆記が読まれたり、録音が再生される状況をデコードの状況と呼ぼう。指標詞が、常にデコードの場所や時間を指示するというのはおかしい。
例えば、わたしが、同居人が7時に帰ることを見越して「私は今はここにいません」とメモに書く。ところが、メモが風に飛ばされ、京都で1年後に発見されるとする。しかし、この発話の「今」「ここ」が1年後と京都を指すということは明らかにないだろう。私は1年後京都にいるかもしれないし、いないかもしれないが、それは私の言ったことではない。
このケースではいずれにせよ「今」はその日の7時、「ここ」は私の家を指示するように思われる。「今」や「ここ」の指示は、意図された状況でないといけないように思われるのだ。
問題は、エンコードとデコードに時間差がある場合に、発話はいつ生じるのか。


可能性としては、「発話は意図されたデコードの状況で生じる」か、「今」「ここ」には、「発話の文脈以外の意図された状況を指示することもできる」かいずれかになる。
著者は前者を否定している。
まず、たとえ誰も読まなかったとしても、私の発話はその日の7時に生じたという可能性はありそうにない。従って、この立場をとると、この状況では、発話はそもそもまったく生じなかったことになる。
一方、1年後に京都で発見されたとしても、「今」「ここ」がその日の7時と、私の家を指示するならば、発話がまったく生じなかったというのもおかしい。発話が生じなかったならば、私のメモは何も指示しないだろうからだ。
著者は、「今」「ここ」は、意図された解釈の文脈を指示することもできるとしている。これを「消費者的意味特性」などと読んでいる。いわゆる歴史的現在なども、これに当たるらしい。