[relativism] James Andow「美的証言についての意味論的解決」

http://philpapers.org/rec/ANDASS
Andow, James (forthcoming). A Semantic Solution to the Problem with Aesthetic Testimony. Acta Analytica:1-8.

短かくまとまっていてなかなかよかった。

目次

  • 1. 序
  • 2. 意味論
  • 3. まとめ

人は証言によって知識を伝える。Aはpと知っている。AはBにpと言う。Bはpを知る。証言による知識の伝達がなければ、われわれはほとんど何も知りえないだろう。
ところが、美的な事柄や倫理的な事柄についてはこれがうまくいかないことが知られている。「あの楽曲は素晴しいんだよ。僕は自分で聞いたことはないけれど、Aがそう言っていた」ということは、美的知識を保証しない。
この論文では、美的述語の意味論によって、この美的証言に関する現象を説明しようとしている。
説明すべき直観は、

  • (i)美的証言によって美的知識をえることには何らかの障害がある。
  • (ii)「この映画はすばらしい。実は観たことはないんだけど」といった主張には、どこかまちがった部分がある。

著者は、文脈主義や相対主義のバリエーションに訴えることでこの二つの現象がなぜ生じるのかを説明する。著者によれば、以下の4つの可能性のいずれでもこれは説明できる。

  • 1. 美的述語を含む文の真理値は、話し手に指標的に相対的である
    • 「この映画は素晴しい」といった文は、話し手の趣味に応じて異なる内容を表現する。
    • ex. 「この映画はジョンにとって素晴しい」
  • 2. 美的述語を含む文の真理値は、話し手に非指標的に相対的である
    • 「この映画は素晴しい」といった文は、誰によって使用されても同じ内容を表現するが、話し手の趣味に応じて異なる真理値をもつ
    • ex. 「この映画は素晴しい」はジョンにとって真である
  • 3. 美的述語を含む文の真理値は、査定者に指標的に相対的である
    • 話し手ではなく、発話を査定する人に応じて異なる内容を表現する。
  • 4. 美的述語を含む文の真理値は、査定者に非指標的に相対的である
    • 誰によって使用されても同じ内容を表現するが、査定者の趣味に応じて異なる真理値をもつ

とりあえず2の場合で説明しよう。「この映画は素晴しい」が真であるのは、それが話し手の趣味のもとで素晴しい場合だ。
ジョンが「この映画は素晴しい」と主張する。主張が正しければ、「この映画は素晴しい」はジョンにとって真である。しかしそのことは、「この映画は素晴しい」がメアリーにとって真であることを意味しない。
もしかしたら偶然「この映画は素晴しい」はメアリーにとっても真であるかもしれない。しかし偶然は知識をもたらさないので、この方法では知識を伝えられない。
もちろん、趣味を共有する信頼できるレビュアーからの証言なら、もしかすると美的知識を伝えることもできるかもしれない。しかし、他の分野と比べて証言による伝達が難しくなることはこれによって説明できる。
直観(ii)も、主張は知識を前提するということ(知識ルール)を認めればすぐ説明できる。証言によって美的知識を伝えることが難しいとすると、「この映画は素晴しいけれど、私は観たことがない」は、「この映画は素晴しいけれど、私はそれが素晴しいことを知らない」というような含意をもつ。後者はおかしいので、前者もおかしく感じられる。


こんな感じで、何らかの相対主義を認めれば美的証言の問題は説明できる。「背が低い」のような文脈依存的な述語でも同様のことは起こりえる。
例えばジョンが「ボブはバスケットボール選手だけど、背が低いんだ」と言うとする。メアリーが、一般的なバスケットボール選手の背の高さを知らずに、「ボブは背が低い」という信念を形成すると、知識の伝達は失敗する。また、「ボブはバスケットボール選手にしては背が低い。私はバスケットボール選手の背の高さについては何も知らないけれど」というとちょっと変な主張になる。