John MacFarlane「ファジー認識説」

マクファーレンだけど、相対主義とは関係ない曖昧性についての論文。

http://philpapers.org/rec/MACFE
MacFarlane, John (2010). Fuzzy Epistemicism. In Richard Dietz & Sebastiano Moruzzi (eds.), Cuts and Clouds. Vaguenesss, its Nature and its Logic. Oxford University Press.

目次

  • 1. 標準的な議論
    • 1.1 隠れた境界
    • 1.2 ソライティーズ
  • 2. 度合いを擁護する新しい議論
    • 2.1 不確かさを結びつける
    • 2.2 部分的に-真と-捉える
    • 2.3 部分的真理と不確かさを結びつける
  • 3 伝統的な反論を再考する
    • 3.1 高階の曖昧性
    • 3.2 比較
    • 3.3 度合いの関数
    • 3.4 最小ルールに対するエディントンの議論


まず普通のソライティーズパラドックスを考えよう。ある人がハゲていない時、それより髪の毛が一本少ない人がハゲであることはありそうにない。「ハゲ」のような述語について、「この人はハゲじゃないんだけど、これより一本毛が少ない人はハゲ」という境界はありそうにない。しかしこれを認めると、ハゲている人は存在しないことになる。これがいわゆるソライティーズパラドックスだ。
周知のように、この問題についてはそれはもう無数の解決策がある。この論文では、真理の度合いを認める立場(ファジー論理を用いる)と、曖昧性についての認識説のふたつが検討される。「ジョンはハゲている」が曖昧である時、前者はこの命題に1未満の真理値をわりふる。ジョンがハゲていることは確定的に真でも偽でもなく、曖昧な真理だ。一方認識説では、古典論理を維持する。これが曖昧であるのは、私たちの認識に限界があるからだ。後者の発想だと、「ジョンが禿げている」は確定的に真か偽だが、私たちはその確証をえることができない。
しかし普通、この両方を認める人はいない。曖昧性についての意味論的アプローチと認識的アプローチは択一的な立場だとされる。
ところが、マクファーレンは、この二つは異なる問題を解決するので、この両者を共に採用すべきだと言う。

認識説を擁護する議論

認識説の問題点は、この立場だと、ハゲかハゲでないかの境界は常に決まっていることだ。私たちはその境界を知らないが、それより一本髪の毛が少なければハゲであるという境界が存在する。これはいちじるしく反直観的なので、真理の度合い説のように、曖昧な事実を認める方が直観的に思えるかもしれない。
しかし、真理の度合いを認める立場でも「確定的にハゲである(真理値1でハゲ)」と「確定的にハゲというわけではない(真理値1未満)」は区別される。では、確定的にハゲでない人の集合を考えよう。その中には、一番髪の毛が少ない人たちがいるだろう。この人たちは、確定的にハゲでない人と、確定的にハゲでないわけではない人たちの境界にあたる。それより髪の毛が少なくなれば、「確定的にハゲでない」わけではない。結局のところ、いずれの立場でも何らかの恣意的な境界を認めなければならないように思われるのだ。
いずれにせよ、境界の存在が反直観的に感じられる理由は、文脈の変動や、知識にはマージンが必要であることなど様々な形で説明できる。それらの多くは認識説でも利用できるし、その際、真理の度合いはあまり役割を果たさない。

真理の度合い説を擁護する議論

ところが、ソライティーズパラドックスとは別の議論によって、真理の度合い説が支持される。「背が高い」「ハゲである」「頭がいい」などに関して、境界的であるジョンを考えよう。ジョンは背が高いとも低いとも言えず、ハゲであるともないとも言えず、頭がいいともよくないとも言えないような中間的な人物だ。認識説が正しければ、私たちは「ジョンは背が高い」「ジョンはハゲである」「ジョンは頭がいい」について不確かであり、それらの命題に関する確証の度合いは確率1未満である。ジョンはとても中間的なので、それらの確率はすべて0.5であるとしよう。
連言の確率は確率の積なので、このとき「ジョンは背が高く、ハゲであり、頭がいい」の確率は0.5×0.5×0.5で、0.125になる。しかしこれは直観に反する。「ジョンは背が高い」「ジョンはハゲである」を半ばだけ認めているとき、私たちは、その連言に関して、元の命題の半分以下しか認めていないというわけではない。
一方、真理の度合い説だと、「ジョンは背が高い」「ジョンはハゲである」「ジョンは頭がいい」の真理値(not 確率)が0.5であるとすると、その連言も0.5になる。こちらの方が直観には合う。
そこでマクファーレンは、確率に関して不確かであることと、半ば真であることの二つは異なる態度に対応すると考えるよう提案している。

  • ひとつは、認識論的な不確かさであり、確率に対応する「真であると-半ば-認めること[partially-taking-to-be-true]」。
  • もうひとつは、曖昧さに関するアンビバレンスであり、真理の度合いに対応する「半ば-真であると-認めること[taking-to-be-partially-true]」。

例えば太郎と次郎のどっちがどっちだったか忘れているために、太郎は確率0.5でふさふさであり、確率0.5でつるつるであるとしよう。このケースは前者に対応する。この場合、確定的にハゲでないか、確定的にハゲであるかいずれかだが、それに対する確証をもっていないため、認識論的に不確かである。一方、髪の毛の量が微妙であるために、ハゲでないともハゲであるとも言いがたい場合は後者に対応する。この際、その人がハゲであることは半ば真である。
マクファーレンは真理の度合いに対する確率分布を考慮することで両者を結びつけている。冗談みたいだが、以下のようなグラフが登場する。横軸が真理の度合いで、縦軸がそれに対する確証の度合い。これは、先程の境界の問題を解決する。ある人がハゲでないことの真理の度合いが1なのか0.9なのかについて、私たちは認識論的に不確定である。これは「ウカシェヴィチとウィリアムソンの中間を行く」アプローチだ(p.28)。