Timothy Williason『哲学の哲学』3章「分析性に関する形而上学的捉え方」

The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)

以前読み飛ばした3章4章を読み直す。


多くの人は、哲学者が扱う問題は、概念や言葉に関わるものだと考えている。哲学は、概念的な真理を中核にもつものだと。この捉え方では、哲学が扱う問題は、経験科学とちがって、実質のないものだ。
実質がないというのはあいまいだが、ウィリアムソンはだいたい次のように捉えているっぽい。

  • 世界のあり方について述べていない。
  • 簡単に知ることができる。

ウィリアムソンはこれを否定する。哲学が扱う問題は、言葉の意味や概念に関わるものではない。「概念的」という言葉はここでは「分析的」と互換的に使用される。
分析的真理の捉え方には二種類ある。

  • 形而上学的捉え方: 分析的真理は、言葉の意味だけによって真である。
  • 認識論的捉え方: 分析的真理は、言葉の意味を知るだけで真であると知ることができる。

3章では、前者の形而上学的捉え方が批判されている。形而上学的分析性(言葉の意味だけによって真である)はいくつかの仕方で明確化できるが、「分析的だから実質的でない」という帰結はそこから出てこない。

ここでは分析性の明確化として以下の2つが検討される。

様相分析性
必然的に、それと同じ意味をもつ文は、どの文脈で使用されても真である。
フレーゲ分析性
文の構成要素を同じ意味の表現に置き換えたときに、論理的真理になる。

上の2つでは、分析性は、必然的真理か、論理的真理に還元されるのだが、ウィリアムソンはこれをだいたい2つの仕方で批判している。(1)還元のいくつかは疑わしい。(2)そもそも還元した先の必然的真理や論理的真理に実質がないというのに根拠がない。

出てくる議論

出てくる議論を簡単にまとめると以下のような感じだ。

  • 1. 「真」という語に「分析的に真」と「総合的に真」という2つの意味があるというアイデアは意味をなしていないという批判。
  • 2. 分析性に関する素朴な捉え方「言葉の意味によって真である」をとっても、分析的真理に実質がないというのは根拠がない。
  • 3. 様相分析性: 分析性を様相分析性によって捉えても、様相分析的真理に実質がないというのは根拠がないという批判。
  • 4. フレーゲ分析性: フレーゲ分析性では分析的真理は論理的真理によって分析されるが、論理的真理に実質がないというのは根拠がないという批判。
  • 5. フレーゲ分析性: 同義な文だからと言って、同じくらい簡単に知ることができるわけではない。論理的真理を簡単に知ることができるとしても、それがフレーゲ分析的文にも適用できるかどうかはわからないという批判。
  • 6. フレーゲ分析性: 哲学者が主張する事柄のほとんどは、そもそもいかなる論理的真理とも同じ意味ではないという批判。
  • 7. 規約への批判。規約された文だから実質がないというのも根拠がないという批判。

批判の紹介

批判は似たパターンのものが多いので2をピックアップして紹介しよう。
分析的真理の典型とされるような文として、「弁護士は法律家だ」や「牝馬はメスの馬だ」という文がある。これが言葉の意味だけによって真だというのはどういうことだろう?
よくある説明はこうだ。「バーバラは弁護士だ」が真であるのは、この文がバーバラは弁護士であるということを意味しており、そしてバーバラは弁護士だからだ。総合的な文の場合、真理は、意味と世界のあり方の2つによって成り立つ。
一方、「弁護士は法律家だ」の場合はちょっとちがう。この文は言葉の意味だけによって真なので、これが真であるために世界が特定のあり方をしている必要はない。


しかしこの説明はおかしい。まず、弁護士は法律家でなかったとしても、「弁護士は法律家だ」という文が真であるというわけではない。この意味で、「「弁護士は法律家だ」が真であるのは、弁護士は法律家だからだ」という説明は別にまちがっていない。分析的な文も世界のあり方によって真だ。
一方、弁護士は法律家だということを事実にしているものは何か? 使用と言及を区別するかぎり、それは言葉の意味ではない。「弁護士は法律家だ」は、おそらく、ある人の集団(集団A)が、別の人の集団(集団B)に含まれるということを述べている。しかし、2つの人の集団は、言葉の意味のおかげでそのような関係にあるわけではない。「弁護士」という言葉がもしまったく別の意味をもっていたとしても、元の文が述べていたこと(集団Aは集団Bに含まれる)は真であるだろう*1
もし、弁護士は法律家だということを事実にしているもの(真理メーカー)があるとすれば、それは集団Aが集団Bに含まれることを事実にしているものと同じものだろう。「牝馬はメスの馬だ」でも同じだ。牝馬はメスの馬だということを事実にしているものがあるとすれば、それはメスの馬はメスの馬だということを事実にしているものと同じものだろう。
しかし、メスの馬はメスの馬であるということを事実にしているのは(もしそんなものがあるとしても)、言葉の意味ではない。メスの馬はメスの馬であることは世界のあり方の一部であるという見解はまだ否定されていない。
また、メスの馬はメスの馬であることは論理的真理であるが、論理的真理は簡単に知ることができるというのも疑わしい。人間が知らない多くの論理的真理があるからだ。

*1:そのような架空の状況では、弁護士は法律家だということを述べるために別の文を使用しなければならないだろうが