http://philpapers.org/rec/WILIAE-2
Williams, Bernard (1979). Internal and External Reasons. In Ross Harrison (ed.), Rational Action. Cambridge University Press 101-113.
理由に関する内在主義を擁護し、外在的理由などというものはないという批判をしている古典的論文。
よく言われることだが、ウィリアムズがここでどういう議論をしているのかは非常にわかりにくい。また解釈の試みはすでにいくつもある。
そのため、議論の再構成はあきらめて、ウィリアムズの立場だけを抜き出しておく。
まずウィリアムズは行為者の主観的動機集合というものを想定している。これは広い意味での欲求からなり、その中には評価の傾向性や感情的反応のパターンや個人的義務感や行為者のコミットメントを具体化したさまざまなプロジェクトを含む。
さらに行為の内的な理由というものは、この動機集合から、合理的な考慮のプロセス(実践的推論)によって発見できるものでなければならない。この考慮のプロセスもかなり多様なものであってよい。
典型的な形では、行為者は、動機集合の複数の要素に導かれつつ「xは動機集合のある要素を充足するもっとも簡単で便利で快い方法だ」と発見し、「だから、xする理由がある」という結論を引き出し、xするよう動機づけられる。動機集合の要素の間に衝突がある場合は優先順位づけもなされるだろう。時間の順序を考えてみることもできる。考慮の結果特定の欲求を捨てることもあるかもしれない。また、それが実現したらどうなるかと想像してみることによって欲求が変化するかもしれない。このプロセスは発見法であり、不確定なものであってもよいとされている。
ウィリアムズによれば、元の動機集合から考慮プロセスによって、どうしてもxするよう動機づけられないとき、xする理由はない。ただし、行為者がxする理由があると考えたとしても、元の欲求や考慮が偽な信念にもとづいている場合、xする理由は与えられない。しかし基本的に何かしら理由をもつのであれば、それはこうしたプロセスによって発見できるものである。
また、ウィリアムズの立場の帰結として、どれだけ考慮しても行為するよう導かれない行為者は理由をもたない。例えば、薬を飲む必要があるのに、そしてその必要を正しく認識しているのに、自分の健康をまったく気にかけず、どう考慮しても薬を飲もうとしない行為者には、薬を飲む理由がない。