Kendall Walton「想像による聴取 - 音楽は表象するか?」

Kendall Walton, Listening with imagination: Is music representational? - PhilPapers

ウォルトンの音楽論。この論文の発展版が「ソウトライティング」なので、以下と合わせて読むのがよい。

Kendall Walton「ソウトライティング - 詩と音楽における」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

  1. 楽経験における想像
  2. ちがい
  3. 想像的感覚
  4. 表出は表象か?: 作品世界なきゲーム世界

絵画や小説は表象であり、何らかの光景や出来事を描く。一方、音楽はそれとはちがうと言われる。歌詞やタイトルなどはともかく、器楽曲は何も表象しないと。

しかし、改めて考えるとこれは自明とは言えない。音楽は表出的である。楽しげな楽曲や陰鬱なメロディや軽やかなリズムなどなどがある。表出は、表象の一種ではないのか?

また、表出に関する喚起説arousal thoryは近年では人気がない。楽しげな楽曲を聴けば必ず楽しくなるわけではない。多くの論者は、「楽しさ」や「悲しさ」を鑑賞者ではなく、音楽の「中」に位置づける。しかし、それって、音楽が悲しさや楽しさを表象しているということではないのか?

また、次のような問題もある。楽しさや悲しみは必ず、誰かの楽しさや悲しみだろう。しかし、楽曲に表出された楽しさや悲しみは、誰の楽しさや悲しみだろう。小説の語り手のように、音楽にも虚構の音楽的語り手がいて、楽曲はその語り手の楽しさや悲しみを伝えているのだろうか。

ウォルトンによれば、絵画が想像上の光景を見るという想像経験を与えるように、音楽は想像上の感覚を与える。楽しげな音楽を聴く人は、自分が楽しさを感じているところを想像する。もちろん、実際に楽しくなって楽しさを感じてもかまわないし、少なくとも、理想的な鑑賞経験においては、楽しさを感じているような、想像によるシミュレーションをしなければならない。

音楽作品における表出は、上記のような自己想像への指図であるとされる。合わせて、聴覚がなぜ感覚の表現に適したものなのかという議論がなされるが、この辺は非常におもしろい。

なお、ウォルトンは、フィクションにおいて、あらゆる鑑賞者に共通する作品世界と、鑑賞者の自己想像を含むゲーム世界を区別している。

例えば、ホームズ小説の場合、「ホームズとワトソンが出会う」などのように、鑑賞者と関係ない虚構的真理は作品世界に属するとされる。一方、鑑賞者は、自分がワトソンの手記を読んでるかのように想像したり、あたかも自分がホームズを尊敬するかのように想像する。後者は、鑑賞者のゲーム世界に属する。

  • 作品世界: ホームズとワトソンが出会う(と想像する)
  • ゲーム世界: 私はワトソンの手記を読んでる(と想像する)。私はホームズを尊敬する(と想像する)。

音楽作品の場合、自分が何らかの感覚を感じるという自己想像しかないため、作品世界はなく、ゲーム世界しかない。

この立場では、小説・絵画などの典型的表象芸術と、音楽のちがいは、音楽にはゲーム世界しかないということだったと解釈される。