Shen-yi Liao & Aaron Meskin「美的形容詞: 実験意味論と文脈依存性」

Shen-yi Liao & Aaron Meskin, Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity - PhilPapers

Liao, Shen-yi & Meskin, Aaron (2015). Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity. Philosophy and Phenomenological Research 93 (1):n/a-n/a.

比較形をもつ形容詞を段階的形容詞と言う。段階的形容詞には「相対的段階的形容詞」と「絶対的段階的形容詞」があると言われる。

相対的段階的形容詞の例は「背が高い」「長い」「大きい」などだ。「背が高い」などの形容詞は文脈に依存的であると言われる。例えば「背が高い小学生」というのは、大人に比べれば身長は小さいかもしれない。「背が低いバスケットボール選手」は、普通の人に比べれば身長は大きいかもしれない。

このため、「太郎は背が高い」のような文の真理条件は、比較対象に相対的な形でしか、真理条件が定まらないとされる。相対的段階的形容詞の真理条件は指標詞などに似ており、文の内容ではなく、部分的には話し手が置かれた文脈によって真理条件が左右される。

一方、絶対的段階的形容詞の例は「曲がっている」「透明である」「まだらである」などだ。両者のちがいは、推論パターンだ。「AはBよりも背が高い」から「Aは背が高い」を推論することはできない。ところが「曲がっている」のような絶対的段階的形容詞の場合、「AはBよりも曲がっている」から「Aは曲がっている」という推論ができる。

例えば、「AはBよりも曲っているということは、Aはちょっとは曲がっているということだな。ちょっとは曲がっているということは、要するに曲がっているということだな」と考えてもまちがいではないだろう。ところがこの推論の「曲がっている」を「背が高い」に置き換えると、明らかに誤った推論になる。

これは実験哲学でも確認できるらしい。人は、いくつかの見本を与えられ「長いものを選べ」と言われると、見本の中で一番長いものを選ぶ。相対的段階形容詞の場合、選べと言われると、暗黙のうちに、見本の集まりを比較対象として構成するような作業をしてしまうわけだ。ところが、絶対的段階的形容詞の場合はこの現象が起きない。「曲っているものを選べ」と言われても、曲っているものは複数あるので選びようがないなどと判断され、「選べない」といった選択肢がとられる。

一方、ここから先が著者らの実験結果だが、著者らはこの実験を美的形容詞に適用した。すると、おもしろいことに、「美しい」などの美的形容詞は、このどちらともちがうふるまいをするらしい。相対的段階的形容詞の場合、多くの人は一番度合いが高いものを選ぶ。絶対的段階的形容詞の場合、多くの人は「選べない」と判断する。美的形容詞の場合、いずれかを選ぶ人と選ばない人が半々くらいになるそうだ。

著者らは、同様の実験を「美しいbeautiful」だけではなく「醜いugly」や「優雅であるelegant」*1でもやっているが、いずれの場合も似たような結果が出るらしい。

この結果が何を意味するのかはいろいろ考察されているが、この論文では特に決定的な結論は出ていない。

*1:「美しい」が評決的美的判断と呼ばれるのに対し、「優雅である」は対象の特徴にも関わるので実質的美的判断などと呼ばれる。