Simon Evenine, 「でもこれってSFなの?」 - サイエンスフィクションとジャンルの理論

Simon J. Evnine, “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre - PhilPapers

Evnine, Simon J. (2015). “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre. Midwest Studies in Philosophy 39 (1):1-28.

目次

  1. ジャンルに対する二つのアプローチ
  2. 所属、定義、規範性
    1. 所属と定義
    2. 規範性
  3. ジャンルを巡る争い
    1. マーガレット・アトウッド
    2. パミラ・ゾリーン「宇宙の熱死

@pubkugyo さんに教えてもらった。作品のジャンルについて論じた論文。特に具体的なジャンルとしてSFを取り上げ、SFにおけるジャンルの定義論争などに触れつつ議論をしている。著者は、デイヴィドソンの解説書などでも知られる哲学者。

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

著者は、ジャンルに関する理論を以下の2つにわける。

  1. 概念領域説
  2. 歴史的個物説

概念領域説によれば、ジャンルとは、作品を分類する方法である。概念領域説に分類される代表的な見解として、著者は、クラス説(ジャンルとは作品の類classである)、性質群説(ジャンルとは性質の集まりである)などをあげる。

一方、著者自身が採用する、歴史的個物説によれば、ジャンルとは、特定の起源と歴史と地理的位置をもつ個物である。より具体的には、ジャンルは、「ユダヤ的伝統」となどと同じ、伝統traditionの一種であるとされる。この立場では、ジャンルの中には、作品だけではなく、作家や読者コミュニティやさまざまな慣習が含まれる。ジャンルを一種のムーブメントと捉える立場だと言った方がわかりやすいかもしれない。

著者は、歴史的個物説の利点として以下の点などをあげる。

  • ジャンルの歴史性(歴史的変化など)をうまく認められる。
  • ジャンルを巡る争い(「これってSF なの?」)をうまく認められる。

特に後者の点は、著者が重要視しているものだろう。ここはわりと疑問もあるのだが、おそらく著者は、概念領域説をとった場合の帰結を以下のように考えている。

概念領域説をとった場合、ジャンル名の指示対象は、作品の類や、共通の性質群である。従って、「SF」のようなジャンル名の意味は、分類を可能にする記述の集まりになると考えられる。例えば、「SF」の定義は「宇宙船、光線銃、タイムマシン、ロボットが出る作品」といったものになるかもしれない。

仮に「SF」の定義がこういったものだとすると、「SF」という語の意味を知っている人は誰でも、何がSFに分類されるのかを容易に知ることができるはずだ。どの作品がSFに属するかに関して対立が生じることはありそうにない。もちろん、二人の人が「SF」という語を異なる意味で使っていれば、見かけ上対立が生じるかもしれない。しかしそれは、ただの言葉づかいを巡る争い(「SF 」という語をどういう意味で使うべきか)だろう。ところが、これは現実に生じていることとは違う。現実には「これってSFなの?」という議論がいたるところで生じているし、もっと実質的な対立があるように見える。

一方、著者のような伝統説をとった場合、もっと実質的な対立が生じる余地がある。伝統説では、「SF」という語は、ある特定の伝統を指示する。しかし伝統は個物なので、ジャンル名の意味を知っているからといって、作品の分類原理を知ったことにはならない(というかおそらく著者はジャンルには分類原理などないと考えている)。ジャンル名は、特定の伝統を「あれ」といって指すようなタイプの語で、分類の原理については何も教えてくれない。また、伝統に関して争いが生じるのもよくあることだ。「これってSFなの?」という争いは、「何がこの伝統の後継者か」と巡る争いとして理解できる。そこには正解はなく、単に権力を巡る争いが生じているのかもしれない。

感想

ジャンルは伝統であるという立場自体はそんなに悪くないし、歴史的変化を認めたいというのもわかるような気はする。ただし、ジャンルの決定には正しい答えは何もなく、影響関係と権力争いだけで決まっているというのは、かなり変じゃないかと思った。

著者はSFを例にしているが、ジャンルにはもっと違うタイプのものもあるだろうというのも気になる。登場人物や舞台によって規定されるジャンルというのもある。例えば、スパイものというジャンルは、おそらく規定の一部に〈登場人物がスパイであること〉を含むだろう。また、西部劇は〈開拓時代のアメリカ西部を舞台にする〉といった規定をもつだろう。こうしたジャンルに関しても、スパイや西部がジャンルの分類に関して何の役割も果たさないというのは、変な立場だろう(少なくともそれは、ジャンルを巡る実践を捉える上では大きな欠陥を持つ立場だろう)。

ただ、著者の言っていることにはもっともな部分があって、例えば、西部劇のファンコミュニティが先鋭化し、「舞台が西部であることが重要ではない、西部のスピリットが大事なんだ。SF西部劇はありだよ」とか言いはじめるような事態はありえるかもしれない。その結果として、開拓時代ではなく未来世界を舞台にした西部劇が認められるというのは、別にあってもいいような気はする。というか、現実にそういうことはあるだろう。でも、それを認めた上でも、ジャンル分類が一定の理由と合理性に基づいてなされていることは捉えられるのではないか。