Noel Carroll, 穏健な道徳主義

Carroll, Noël (1996). Moderate moralism. British Journal of Aesthetics 36 (3):223-238.

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

目次

  1. 過激な自律主義
  2. 穏当な自律主義

芸術的価値と道徳的価値の話が話題だったので、Evernoteの読書ノートからサルベージ。

芸術的価値は道徳的評価から自律しているか?というのはよく議論されるが、この論文は自律主義の批判で有名。最初のところでは、「自分の若い頃はニュークリティシズムの全盛で、芸術を道徳的に評価するなんてとんでもないという雰囲気だったが、最近はアーティストも政治の話をするようになった」とか思い出話をしており、その辺もおもしろい。

キャロルは以下の3つの立場を対比させた上で、穏健な道徳主義を擁護している。

立場 説明
過激な自律主義 芸術を道徳や政治の観点から語ることは不適切だ
穏健な自律主義 芸術作品の道徳的評価は有意味だが、芸術作品の美的次元は、道徳的評価の次元から独立している
穏健な道徳主義 作品の道徳的評価は美的評価に関わりうる

前半では、自律主義の議論を「最大公約数論証」として再構成し、これを批判している。後半では、後に「適切な反応の論証」と名付けられた論証で、穏健な自律主義を批判している。

キャロルが考える自律主義の問題点は、一部の芸術の特徴をアート一般に拡張し、アート一般の評価規準として主張してしまう部分にある。例えば自律主義の論証は典型的には以下のような形をとる。

  • 芸術はそれ自体として評価される。
  • 道徳的評価は作品をそれ自体として評価することではない。
  • よって作品を道徳的に評価することは不適切だ。

「芸術はそれ自体として評価される」「道徳的に評価されない」といった特徴は、確かに芸術作品のプロトタイプ的イメージとしてはよくあるものかもしれない。しかし、それは本当に、あらゆる芸術形式・あらゆるジャンルの芸術作品の特徴として適切なものだろうか。

キャロルが指摘するように、物語作品に対して道徳的反応をすることはごく普通だ。物語の読者は、作中の出来事を道徳的に捉え、適切な感情的反応をとる。しかし、そうだとすると、自律主義が「芸術一般の評価規準」として持ち出すものは、単に一部のジャンルの慣習を不当に一般化したものになってしまうかもしれない。

また、キャロルが穏健な自律主義に対する批判として持ち出すのもやはり物語芸術の例だ。物語芸術の場合、道徳的評価は明らかに芸術的評価に影響する場合がある。例えば、作中で道徳的人物として肯定的に描かれている主人公が、実際には差別的な言動をしていれば、それは作品としてもマイナスに評価されるだろう*1

具体的に、キャロルがあげているのは『アメリカンサイコ』の例だ。この作品は80年代アメリカの風刺だが、殺人の場面を暴力的に描きすぎてあまりうまくいっていない(らしい)。こういうのは制作者の道徳的な誤判断が作品の芸術的評価にも悪影響を及ぼす例だとキャロルは主張する。

*1:もちろん、ジャンルにもよるし、文脈にもよる。キャロルが言っているのは単にそういう場合があるだろうという話だ。