ロナルド・ドゥオーキン「リベラルな国家は芸術を支援できるか?」

美的理由について勉強するシリーズ。

その1 その2 その3

原理の問題

原理の問題

『原理の問題』の9章に入ってる、国家による芸術支援に関する有名な論文を読んだ。

この論文では、国家が芸術と人文学に関して、どれだけ支援すべきなのかという問題を扱っている。前半では、(1)経済学的アプローチと(2)高尚なアプローチという二つのアプローチが検討され、どちらも退けられる。

  1. 経済学的アプローチ: 共同体において保持されるべき芸術の質は、共同体が芸術の保存のために支払うことを望む価格によって決定される。
  2. 高尚なアプローチ: 人々が望むものではなく、人々が持つに値する芸術を保持するべきだ。

経済学的アプローチは「市場に任せろ」、高尚なアプローチは「良い芸術を与えろ」とそれぞれ要約できるだろう。

経済学的アプローチにおいては、人々が自分が喜んで支払ってもよいと思う金額に応じた芸術を享受するべきだという前提が採用される。ここからストレートに出てくる結論は、芸術への公的支援はほとんどしなくても良いというものになる。なぜなら、国家が余計な支援をしなければ、人々は自分が望むだけの金額を美術館の入場料やオペラのチケットに対して支払うはずだからだ。市場に任せておけば、適正な価格が決定され、人々はちょうど自分が望むだけの芸術を得るはずだ。もし、公的補助金が市場を邪魔してしまうと、共同体は、自分が必要とする以上の金額を芸術に対して投入してしまうことになる。

また、経済学的アプローチに対して反発を覚える人々は、高尚なアプローチに共感するかもしれないが、その欠点についても考えるべきだろう。第一に、大学や美術館への補助金によって利益を受ける人々の大半は、すでに芸術を好むだけの教育を受けた裕福な人々である。医療や貧困対策ではなく、芸術に出資することは、裕福な人々にさらなる利益を与え、不公平を拡大するかもしれない。第二に、高尚なアプローチは傲慢なパターナリズムである。それは、ある生き方よりも特定の生き方の方が立派であり、テレビでフットボール中継を観るよりもティツィアーノの絵を観る方がより良い生き方だといった判断を強制するものである。国家が徴税と警察権力の独占を背景に、特定の善の構想を押しつけることは許されるべきではない。

だが、改めて考えると、経済学的アプローチの前提には問題がある。ドゥオーキンは、芸術には、いわゆる公共財とよく似た性格があることを指摘する。ハイカルチャーが栄えると、文化全体がその恩恵を受けて栄えるという関係があるのであれば、芸術への支払いは、料金を支払った人以外にも利益を与えることになる。公共財の場合、市場による選択がうまくいかないことはよく知られている。

ただし、芸術支援の場合、公共財に対する通常のアプローチはあまりうまくいかなさそうだ。ドゥオーキンは3つ問題をあげている。

  1. タイムラグの問題: ハイカルチャーを援助することで文化全体が栄える場合、効果が出るまでに大きな時間がかかる。
  2. 不確定性の問題: どの程度の出費がどの程度の効果をあげるのか、大まかに予言する方法さえない。
  3. 一貫性の問題: 人々がどんな文化を欲するかを決めることは原理的に不可能である。

このうち一貫性の問題がもっとも深刻なものだが、一言で説明するのは難しいので、詳しく説明する。ドゥオーキンによれば、共同体の文化は、その成員の選好と価値観にあまりにも深く影響してしまうので、文化の選択を比較することは不可能だ。例えば、オペラという芸術形式が仮に存在しなかったとしよう。しかしオペラをもたない文化は、果たしてそのことを嘆くだろうか。彼らはもはやオペラ文化を構成していた概念や価値観を持たないのだから、その喪失を残念がることもないだろう。もし私たちが現在の芸術支援をケチれば、未来世代はオペラの喪失と同様の喪失をこうむるかもしれないが、それがどれだけの害になるのか、果たして害と言えるのかどうかすら明確ではない。

ドゥオーキンの言う困難は、比較不可能性の問題なので、もちろん〈芸術を支援すべきではない〉という結論が出てくるわけではない。問題はむしろ〈いくら払えばいいのか決定することは極端に難しい〉という部分にある。

代替案としてドゥオーキンが提示するのは、以下のような案だ。まず文化と芸術は、私たちの思考と価値観を構成するリソースであり、言語と同じようなものだ。それらが多様性や創造性を失なうことは悪いことだとは一応言えるだろう。また、これはパターナリズムではないという擁護は可能だ。多様性と創造性を保持することは、特定の選好を押しつけることではなく、むしろより選択肢を増やすことにつながるのだから、パターナリズムではないだろう。

ドゥオーキンの案は、それほど明確とは言えないが、以上のような発想のもと、芸術と文化の多様性と創造性を保持することを目的とした公金の投入は一定程度正当化されるだろうというものになる。