アントン・フォード「行為と一般性」

Ford, Anton (2011). Action and generality. In Anton Ford, Jennifer Hornsby & Frederick Stoutland (eds.), Essays on Anscombe's Intention. Harvard University Press.

この論文では、「行為は定義できない」という立場——より正確には「行為は、単なる出来事 + Xとしては定義できない」という立場——をアンスコムに帰属させ、その立場を擁護している*1

前半では、概念の定義として、「類 + 種差」というタイプの定義が可能になるカテゴリーと、そうではないカテゴリーがあるという話をしている。

例えば、わし鼻は、くぼんだ鼻、つまり「鼻 + くぼんでいる」として定義できる。しかし、これが可能なのは、〈くぼんでいる〉という特徴が、鼻概念とは独立した偶有的特性だからだ。〈くぼんでいる〉という特徴は鼻以外のものに例化されることもあり、鼻概念とは独立に理解可能である。

だが、この種の定義が不可能なカテゴリーもある。例えば赤は色の一種であるが、赤を「色 + X」として非循環的な形で定義することはできない。〈単なる色〉に何らかの条件を付け加えることで赤を定義するのは困難に思われる。例えば、「人間に赤さの経験を引き起こす色」といった定義はできるかもしれないが、これは循環している。同様に、馬は動物の一種であるが、馬を「動物 + X」として定義するのは難しそうだ。伝統的にはもちろん「馬は四足の動物である」といった定義はあるが、これはあまりうまくいっているようには見えない。

同様に、行為というカテゴリーは、出来事の一種かもしれないが、「単なる出来事」というカテゴリーに何らかの偶有的特性を付け加えて、行為というカテゴリーを定義することはできないと著者は主張する。

そのために著者が持ち出すのが「ヒュームの循環」という事態だ。ヒュームの循環は、ヒュームとはそれほど関係ないのだが*2、〈ある行為Xを遂行するための構成的条件にXの概念を持つことが含まれる〉という事態のことだ。例えば、約束、結婚といった行為についてはこれが成り立つように思われる。一般的には、約束するひとは、すでに約束とは何かを知っているのでなければならない。少なくとも、約束という制度が成り立つための構成的条件のひとつには、関係者が約束概念をもっているということが含まれるように思われる。

もちろん、厳密に言うと、約束とは何かをあまりわかっていないまま、約束をするひとがいる可能性はあるのだが、少なくとも〈健全な約束〉や〈約束の典型例〉に話をかぎれば、約束するひとはすでに約束の概念をもっているはずだ。

以上のような循環は約束という概念の定義を困難にする。そして、行為の一種である約束を定義することが困難なのであれば、行為一般というカテゴリーも定義できないのだと著者は主張する。

感想

著者は、〈行為の下位カテゴリーの中にヒュームの循環が成立するものがあるなら、行為一般にもヒュームの循環が成り立つ〉という風に考えているように思われるのだが、ちょっとそこの流れがどういう理屈なのかあまり再構成できなかった。該当箇所の訳を載せておく。

もし行為の本質的種のうちのひとつにおいて、行為者が自分が何をしているのか知っており、かつそれが行為であり、単なる出来事ではないと知っているのであれば、約束の場合のように、〈行為者は自分がその行為を遂行する者だと知っている〉ということが、行為それ自体の本質に属する——ゆえに、行為にも、ヒュームの循環が成立する。 If one essential species of action is the action whose agent knows what she is doing, and that it is an action and not a mere event, then it belongs to the nature of action as such, as it does to that of a promise, that the agent of it knows she is the agent of it—so that action, too, gives rise to a Humean Circle.

あと、ヒュームの循環があると定義が困難になるというのはわかるのだが、定義が不可能になると言われると、そこまで言えるだろうか?というのは疑問(わたし自身は特に強い意見があるわけではないのだが)。例えば、芸術作品というカテゴリーについて、ここでいうヒュームの循環が成立することは多くの芸術哲学者が認めることだと思う(芸術作品を作るにはすでに芸術作品の概念をもっていなければならない)。

しかし、だからと言って芸術作品の定義が不可能だと思われているかと言うと、一般にそういう風には理解されておらず、「だから、制度や慣習を組み込んだ定義を立てなければならないのだ」という風に理解されていると思う。

ただし、これがアンスコムの立場なのだと言われれば納得感はある。例えば、芸術哲学で言えば、モーリス・ワイツウィトゲンシュタインの影響のもとで、芸術作品について似たようなことを述べているし、ピーター・ウィンチも(行為に関して)同じようなことを言っていた。だから、上記のような立場は、当時アンスコムウィトゲンシュタインの影響を受けたひとびとには広く共有されていた考え方だったのかもしれない。

あと、もうひとつ気になったのは、どちらかと言うと、なぜ上記のようなことを主張したいのか、これが言えると何がうれしいのかというがわからなかったので、もう少しそこが知りたいなと思った。

*1:著者は、意図的行為は定義できないという話もしているが省略。

*2:ヒュームがある箇所で「良いことをするためにはまず何が良いことなのか知っていなければならない」という趣旨のことを言っているらしい。