エドガー・アラン・ポー「アッシャー家の崩壊」

気軽に読んだ小説の感想などをもっと書いていきたいと思ったので書いていこう。

『「幽霊屋敷」の文化史』という本を読んでいたら、ポーの「アッシャー家の崩壊」の話が出てきて、そう言えば読んだ記憶がないなと思ったので読んだ。

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

「幽霊屋敷」の文化史 (講談社現代新書)

はじめは青空文庫版のやつで読んだのだが、古い訳で読みにくいし、何かよくわからない話だなと思ったので、下記の訳で読み直したら結構おもしろかった。

「アッシャー家の崩壊」は、とにかく不気味な雰囲気はあるが、何だかよくわからない話で、『「幽霊屋敷」の文化史』でも、「終末のカタストロフに向かって物語が進展するあいだ、これといって何も起こらない」と言われている(p.99)。

しかし、順を追って見ていくと、この短篇は

  1. 無生物も意識をもつかもしれないという話と、アッシャー家の不気味な屋敷がまるで意志をもっていたようであったという話があり、
  2. アッシャー家の屋敷と、代々の子孫には不思議な精神のリンクがあったという話があり、
  3. 当代のアッシャーは精神の緊張の限界にきていたという話があり、
  4. 最後に、陰惨な事件のため、アッシャーの精神に限界がきた。その結果何が起こったか?

という話になっている。繰り返し挿入される「観念が具体物にやどる」というエピソードも含め、ポーは、汎心論めいた「物に心がやどる」テーマに関心があったのだなと伺われる。ちょっとわかりにくいのは、最後の陰惨な事件がただの事故なので、ちょっと拍子抜けしてしまうが、それはあくまでアッシャーの精神が崩壊をきたすきっかけとなった事件で、あまり本題ではなかったのかもしれない(読み直したらそのことに気がついた)。

個人的におもしろいなと思ったのは無機物もまた意識をもつかもしれないという話の箇所で、権威づけのため、当時の科学文献がひかれたりしていて、結構SFチックな内容になっている(ポーがこの小説で使っているアトモスフィアという概念も、当時の科学文献からとったのではないか、という指摘は『「幽霊屋敷」の文化史』でも触れられていた)。この辺をもっとふくらませれば、普通に現代でもSF短篇として通用しそうな話ではある。