Greg Frost-Arnold「「分析哲学」の興隆: いつ、どのようにして人々は自らを「分析哲学者」と呼ぶようになったのか

Frost-Arnold, Greg (2017). The Rise of ‘Analytic Philosophy’: When and How Did People Begin Calling Themselves ‘Analytic Philosophers’? In Sandra Lapointe & Christopher Pincock (eds.), Innovations in the History of Analytical Philosophy. Palgrave Macmillan. pp. 27-67.

タイトルは「分析哲学」が括弧に入っているのがポイントで、「分析哲学の興隆」ではなく、「語「分析哲学」の興隆」。「分析哲学」という用語の普及の歴史を追った論文。

目次

  • 1 序
  • 2 動機
  • 3 いつ?
    • 3-1 境界を見る: ネーゲルの記事、最初の教科書、最初のアンソロジー
    • 3-2 反論と応答...および厄介な問題
  • 4 グルーピングに対する当時の正当化
    • 4-1 ネーゲルの正当化
    • 4-2 第二フェーズ。世紀半ばにおける正当化
  • 5 グルーピングに対する抵抗
    • 5-1 初期ケンブリッジ分析学派は第二フェーズにおけるグルーピングの正当化を明示的に拒否
    • 5-2 なぜ「分析哲学」は1950年代まで広まらなかったのか
    • 5-3. なぜイギリス人は最終的には「第二フェーズ」の言語的哲学観を受け入れたのか
  • 6 「分析哲学」の対義クラス(たち)
    • 6-1 「大陸哲学」
    • 6-2 初期の対義クラス
  • 7 結論

著者はこの研究のモチベーションとして次のような考察をあげる。〔ジョージ・エドワード〕ムーアと、カルナップは、どちらも分析哲学の祖のひとりであり、典型的な分析哲学者とされているが、素朴に考えて、このふたりの哲学が似ているようには見えない。カルナップは数理論理学を大いに使用しているが、ムーアは少しも使用していない。カルナップは、哲学は科学の論理学によって置き換えられるべきだとしているが、ムーアの哲学には科学の論理学らしい部分は少しもない。そうだとすると、いったいなぜこのふたりが「同じグループ」とされているのかは大いに疑問ではないか。

これに対し、「いやいや今の目で見るとそう見えるだけで、同時代にはそうでもなかったのではないか?」と言う人がいるかもしれないが、別に同時代にも、この両者を「同じグループ」と考えることはまったく自明なことではなかった、と著者は指摘する。そうだとすると、この両者を同じグループと見なすようなカテゴリーがいったいなぜ普及していったのかは大きな歴史的謎である。

そこで、とりあえず、同時代の人々がこのグルーピングに対してどのような正当化を与えたのか、およびそれに対し、どんな批判があったのかを見ていこうという趣旨。

読むとわかること

読むとわかること

  • 著者によれば、語「分析哲学」が現在の意味で使用されだしたのは1930年代だが、広まったのは1950年前後である。
  • 1930年代
    • 1930年代は、ケンブリッジ分析学派の人々が自分たちの方法の名称として「分析」を使っていた。ただしケンブリッジ分析学派は「分析哲学」「分析哲学者」という言い方はあまりしない。また、「分析哲学」に、論理実証主義などを含めるような用法も見られない。
    • 例外的に今の用法に近いものとして、Ernest Nagelの‘Impressions and Appraisals of Analytic Philosophy in Europe’(1936)という文章がある。これは、アメリカ人のアーネスト・ネーゲルがヨーロッパに留学して、「ヨーロッパの最先端の哲学をアメリカに紹介します!」という趣旨で書かれたもの。ここでは(1)ムーアなどケンブリッジ分析学派、(2)論理実証主義、(3)ウィトゲンシュタイン、(4)ポーランドの論理学者と唯名論者などが、「分析哲学」というラベルでまとめられており、おおむね今の分類に近い。
    • 著者がそういう言い方をしているわけではないのだが、素朴に考えると、ネーゲルの文章は「ヨーロッパの哲学をアメリカに紹介する」という趣旨で書かれたものだったので、イギリスの哲学と、ドイツやポーランドの哲学をひっくるめて──それらの違いにはあまり頓着せず──「分析哲学」というラベルをつけたのではないかという感じもする。
  • 1950年前後
    • 1949年に「分析哲学」を冠した教科書と論文集が出ている。Arthur PapのElements of Analytic Philosophy(1949)、Feigl and SellarsのReadings in Philosophical Analysis(1949)。この辺から、現代の用法とほぼ近いものが定着していく。
    • 分析哲学の特徴は、言語に注目するアプローチだ」と言われはじめたのはこの頃。
    • ただし、本当に「分析哲学」というひとつのグループがあるのかどうかはあやしいというのは、これらの本でも指摘されている。ケンブリッジ分析学派など、言語アプローチを明確に否定する人々も存在する。また、ケンブリッジやオックスフォードの人々は論理実証主義とまとめられるのを嫌がっていた。
  • 本論と関係ない小ネタだがおもしろかったものとして、「分析哲学」と対比して「大陸哲学」を使うのはもっとずっと新しい用法で定着したのは1970年代らしい*1

*1:アングロサクソンの哲学と大陸の哲学を対比するといった用法は当然ながらもっと昔からあるが。

フィクションの哲学のニューウェイブ: エイベルの『Fiction: A Philosophical Analysis』

まえおき: フィクションの哲学の現状

最近出版されたキャサリン・エイベルのFiction: A Philosophical Analysisという著作を紹介したいのだが、最初に「フィクションの哲学」と呼ばれる分野の現状について簡単に紹介しておく。

わたしがやっている分析哲学系のフィクションの哲学という分野は、大まかには形而上学言語哲学系統のものと、美学系統のものに分けられる。

美学系統のフィクションの哲学は九十年代に確立された。もう少し詳しく言うと、九十年代初頭に出た三冊の本、すなわちケンダル・ウォルトンMimesis as Makel-Believe、グレゴリー・カリーのThe Nature of Fiction、ラマルク&オルセンTruth, Fiction, and Literatureの三冊がこの分野を規定している。

詳しく入りこむつもりはないが、この三冊は大まかには同じフィクション観を提示している──ひとことでまとめれば、作品の受け手が採用する態度、想像(ないしメイクビリーブ)によってフィクションを規定する立場だ──大まかには、受け手が、事実としてではなく架空の出来事として受け止める態度を取るよう求められるものがフィクションだよということになる*1。この立場は、デレク・マトラヴァーズによって「コンセンサスビュー」と呼ばれている*2。この三冊の出版以降、(美学系統の)フィクションの哲学は、このコンセンサスビューを中心として展開された。「中心」というのは別に全員が賛同しているというわけではなく、そのブラッシュアップや応用や批判やオルタナティブの提示が行なわれたということだ。

ただし、それも九十年代にはある程度落ちついてしまい、今から振り返ると2000年代や2010年代にはそもそもフィクションの哲学の出版がほとんど無かったように思われる*3

(改めて振り返ると2000年代の英語圏の著作はフィクションじゃなくてナラティブをタイトルに冠した著作が多いのでナラティブが流行っていたのかもしれない)

一方「あ、何か潮目が変わったな」と思ったのは、二年ほど前に、キャサリン・ストックのOnly Imagineが出版された時だ。ストックは立場的には完全にコンセンサスビューの支持者なのだが、この著作は何か新しかった。フィクションの哲学の伝統的なトピックを、作品解釈における意図説・反意図説の話題と結びつける整理も目新しかったし、昔の人が延々と論じていたが、どうでもいいとしか思えないような問題が、一段落であっさり済まされていたりして、ニューウェイブ感があった。ストックは、昔からある立場を組み合わせているので新しさはわかりにくいのだが、やっぱり昔の著作と比べて読むと、ものすごくきれいに整理された感じはある。

ふたりのキャサリン

で、ここからが本題なのだが、キャサリン・エイベルという美学者のFiction: A Philosophical Analysisという著作が出版された。出たのは十月だが、年末年始にようやく読みはじめ、二章まで読んだところで、重要な著作だと思ったのでブログで紹介することにした。

エイベルは、描写の哲学や芸術の定義論などですでにいくつも重要な論文を残している気鋭の美学者だ。フィクションの哲学をやっているイメージは無かったが、 はじめての単著がフィクションの哲学に関するモノグラフになるということで期待していたが、やはりおもしろい。

適当にそれっぽく断言しておくと、少なくともここ十年くらい?の間、フィクションの哲学という分野は、ふたりの「キャサリン」、つまりKathleen StockのOnly Imagineと、Catharine AbellのFiction: A Philosophical Analysisの二冊を中心に展開するだろう*4

コンセンサスビューを確立した三者(四者?)の著作がそれぞれ少しずつ似ているように、ふたりのキャサリンの著作もどこか似ている。ひとつわかりやすい共通点は、両者とも、作品解釈の問題をひとつの中心的トピックに据えていることだ。これはストックの著作が出たときに「今までありそうでなかった整理だな」と思ったのだが*5、エイベルもこの整理に乗ってきたので、しばらくこの傾向はつづきそうだ。ただしふたりの結論は逆で、ストックが極端な意図説(作者の意図を重視する立場)であるのに対し、エイベルは慣習や制度を重視する立場だ。

また、ストックの立場が、細かいアップデートはありつつ、基本的にはコンセンサスビューであるのに対し、エイベルは、コンセンサスビューに似ているが、厳密に言えば違う別の立場を打ち出している。この辺りの違いも興味深い。

だが、両者の最も大きな違いであり、エイベルの著作の特徴にもなっているのは、制度論を全面的に導入したことだ。これまでフィクションの哲学ではあまり見ることがなかった社会存在論の道具立てが使われており──例えばゲーム理論マトリックスが出てきたりして──、新鮮な印象を受ける*6

フィクションの制度

エイベルの本は、日本でも邦訳が出たフランチェスコ・グァラの制度論を全面的に参照したものだ。これは別に「制度というのは一種のフィクションで…」といった話ではなく、ここで「フィクションの制度」と呼ばれているのは、文学の制度とか映画の制度のことだ。

以下この制度論を使ったエイベルのフィクションの定義を、ざっくりと紹介しよう(エイベルのフィクションの定義はかなり難しいし、以下の話はかなり省略しているので、わたしの解説をあまり真に受けず、気になったら直接読んでみてほしい)。なお、エイベルのフィクションの定義論は、実はエイベルの芸術の定義論とほとんど同じ枠組なので、先にそっちを知っていると理解しやすいかもしれない。

エイベルのフィクションの定義は二段構えで、(1)先に「フィクションの制度」というものを定義し、(2)フィクションの制度によって生み出される作品を「フィクション作品」と見なすという構成になっている。

これを逆側から言えば、あるものがフィクション作品かどうかを知りたければ、まずその作品を生み出している制度がどういうものなのかを特定し、次に、その制度がフィクションの制度になっているかどうかを調べればいいという話になる。

ただし、ここが難しいところだが、エイベルの立場によれば、「フィクションの制度」という単一の制度が存在するわけではない。むしろフィクションの制度は無数に存在する。

例がないと説明しづらいので、まずいろいろな制度の例をあげてみよう。

  1. ハリウッド映画の制度
  2. 現代落語の制度
  3. 近代文学の制度
  4. 報道動画の制度
  5. Youtuberの制度
  6. 近代行政制度

これらはどれも、何かしらの規範やルールを共有しているという意味で「制度」と呼ぶことができるようなものだが、これらの制度すべてがフィクションの制度になっているわけではない。おそらく1、2、3はフィクションの制度だが、4、5、6はちがう。

では何が両者をわけているのか。エイベルの立場によれば、制度を規定するのは機能──それがどんな問題を解決しているか──だ*7。一方、問題には複数の解決が存在しうる。1、2、3などの制度は〈ひとつの共通の問題に対する別解たち〉と見なすことができるという点において、共通性をもっている。

では、フィクションの制度が共通して解決している問題とは何か──想像の伝達だ。単に事実を人に共有するのと違い、架空の事柄についての想像を人と共有することは特有の難しさをもっている。エイベルがフィクションの制度と呼ぶのは、この想像伝達の困難を解決するルールや装置をもった制度のことだ。

ざっくりとしたアイデアは以上。細かくは本を読んでほしい。

*1:ただし、個別に詳しく見ると三者の違いは大きい。特に厄介なのはウォルトンで、コンセンサスビューの支持者としてもっとも有名なのがウォルトンであるにもかかわらず、実はウォルトンはコンセンサスビューの支持者ではなく、ウォルトンにコンセンサスビューを帰属するのは単なる誤読であるとも言われる。言われるというか、わたしもその解釈が正しいと思う。が、その話は詳しく入り込むとめんどうなので置いておこう。少なくとも「誤読バージョンのウォルトン」には影響力があるので、誤読だからと言って簡単には無視もできない状況にあるということだ。

*2:Fiction and Narrative。念のために付け加えておくとマトラヴァーズは名前をつけただけで、本人はコンセンサスビューを批判している。

*3:例外はフィクションの認知的価値の分野で、この分野だけは盛り上がっている。それ以外もぽつぽつと出版はあるが、以前ほど盛り上がっている感じはない。

*4:Stockの方は"Kathleen"というスペルなので、カタカナ表記が本当に「キャサリン」でいいのかわからないが。

*5:詳しくは前に書いた紹介記事を参照。

*6:ただ、近年は美学においても社会科学的なトピックや社会存在論を導入するのが流行している印象があり、少し前に出たロペスのBeing for Beautyという著作でも似たような道具立て(ゲーム理論など)は登場していた。なおロペスの本は美学の本ではあるがフィクションは扱っていない。あと、どちらの著作でもゲーム理論は、そんな本格的に使われているわけではないが。

*7:ここは本当はグァラの枠組に沿ってゲーム理論を使う箇所で、ここでいう「問題の解決」は正確には「コーディネーション問題に対する均衡解」。

機械学習と理解は対立するか

(この記事は書きかけでしばらく放置していたのだが、何となく機運が高まったので、公開することにした)

理解とディープラーニングの対立?

現在は第三次AIブームということで、毎日のように、AIやディープラーニングに関連するニュースを耳にする──これはまあわたしが積極的にその手の情報を集めているせいもあるのだが、おそらく関心のない人も、「何かAIがすごいらしい」という話をよく聞くなという印象くらいはもっているのではないだろうか。たとえば最近は、人間が書いた文章とほとんど見分けのつかない文章を生成するGPT-3が話題になっている*1

わたし自身は、最近は仕事でディープラーニングを使うようなこともやっているし、論文を読んだり、自分でディープラーニングのモデルを実装したことも何度かあるので、まあその手の情報に詳しい方だと言っても問題はないだろうと思う──もちろん機械学習の研究者ではないので、あくまでユーザーにすぎないが。ブログで論文を紹介したこともある。

「神経科学に触発された人工知能」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

そんな中、最近気になっている見解がある。

機械学習の発展によって、人間の理解は不要になり、予測だけが求められるようになる」というやつだ。

典型的には、一方の側に理解説明が──人間的なものの代表として──置かれ、もう一方の側に、ディープラーニングやAI、あるいはそれらの技術を利用した予測が置かれ、両者が二項対立のような形で捉えられる。

たとえば、以下のブログ記事などでそういう話題が取り上げられている(リンク先の記事はそこまで単純な意見を述べているわけではないが)。

深層学習は科学に「理解」の放棄を迫るのか?:「高次元科学への誘い」(丸山宏)へのコメント - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

ディープラーニングは「予測」しているか?

この手の見解に関しては、わかる部分もあるような気がするのだが、今のところかなりの違和感を覚えている──多分もう少し言い換えを探るとかして穏当な見解に言い換えれば、主張の大部分は受け入れられるような気もするのだが。

わたしが感じている最大の違和感は「理解っていうのは人間にしかできない事柄なのか?」という部分にあるのだが、先にもっと細かい部分から指摘しよう。

まず、そもそもディープラーニングの実用例は、その大半が予測ではないということは指摘されて良い事柄だと思う。機械学習に関して、何かのブラックボックスに大量のパラメーターを放り込むと、確実な未来予測をしてくれるというイメージをもっている人は結構いるのかもしれないが、そのイメージに合致する実用例って本当にそんなにあるのかというのは疑問だ──これはもちろん、どういう実用例に注目するかで印象が左右されそうだが。

すごく普通のことを言うと、冒頭であげたGPT-3を含め、ディープラーニングのおもしろい適用例の多くはむしろ生成モデルだろう。生成モデルというのは、まあ、画像を作ったり、音楽を作ったり、文章を作ったりするモデルだ。生成モデルもある意味では「予測」をしていると言えなくもないのだが、少なくとも上で述べたような予測のイメージとは違っている。あるいは、多くの人が使ったことがありそうな例で言うと、機械翻訳などもあげられるだろう。機械翻訳は予測だろうか。

したがって、よく考えると、ディープラーニングを「理解ではなく予測」という言葉でまとめること自体、すでにかなり変だと思うのだが、上記のような見解をよく目にするので、何でみんなそんな変なこと言うのかなというのが気になっている。

機械も理解する

上のような二項対立では、予測は機械にもできるが、理解は人間にしかできないという風に前提されているようだ。だが、これは少なくとも、かなり疑わしく、異論の余地のある見解ではないだろうか。もちろん「理解」という語をそういう風に定義して使うことはできるし、歴史的にそういう用法があったことは知っている。例えば、有名なところでは、新カント派の重要概念である「理解」は人間にしかできないものとして想定されていた。

しかし、理解という現象を真面目に捉えようとするかぎり、「理解は人間にしかできない」という規定はどう考えても余計な条件であるし、その立場を維持することは難しいのではないだろうか。

ウィルケンフェルドという哲学者が理解に関しておもしろい論文を書いているので紹介したい(実は元々この論文を紹介したくてこの記事を書きはじめたのだが、関係ない部分が長くなってしまった)。

Wilkenfeld, Daniel (2019). Understanding as compression. Philosophical Studies 176 (10):2807-2831.

詳細は紹介しないが、この論文でウィルケンフェルドは、理解を、有用なかたちで情報を圧縮することとして定義している。例えば「あるひとが述語論理を理解している」というのは、ウィルケンフェルドの定義によれば、適切に圧縮されたかたちで──丸暗記などに頼ることなく──述語論理に関わる証明などをうまく再構成できるように情報を保持している状態ということになる。また、当然ながら「有用なかたち」がどういうものであるかは、文脈によって変化しうる。

おもしろいのは、この定義に従えば、機械にも理解は実現可能であることだ。それどころか、現に近年のディープラーニングモデルの多くは、まさにこの情報の圧縮を明示的に行なっている。例えば、よく使用されるオートエンコーダーなどのアーキテクチャーは、入力情報を有用なかたちで圧縮することを目指すものだ。世界モデルと呼ばれるモデルでは、ビデオゲーム画面などの入力をオートエンコーダーに圧縮させることで、AIに外的世界(ゲーム内環境)のモデルを構築させるが、ウィルケンフェルドのような理解観をとるかぎり、世界モデルは、環境を──少なくともある程度は──理解しているということになる。

実際、現代の深層学習モデルが、対象の「理解」をもたないというのは、かなり無理のある見解になりつつあるのではないかとわたしは考える。BERT(モデルの名前)や、GPT-3が言語をまったく「理解」していないというのはもはや難しいのではないだろうか。もちろん、その「理解」が人間と同程度ではない(あるいは質的に違う)ということはあるにしても。

では、BERTやGPT-3が言語をある程度理解しているとして、その理解は「どの程度」なのか、というのはおもしろい問題だと思う。最近読んだ論文で知っておもしろかったのだが、BERTは、「家は大きい」「人間は家に入る」ということを「知って」いるにもかかわらず、「家は人間より大きい」ということを「推論」することはできないらしい。そういう理解をどう考えるかという問題はあるだろう*2

いずれにしても、深層学習モデルもまた何らかの仕方で対象を「理解」しているのだとすれば、「機械学習は理解を不要にする」といった見解は、少なくとも、単純すぎる見解ということになるのではないだろうか。

でも機械学習モデルはブラックボックスでしょう?

ここで、次のような反論があるかもしれない。仮に、機械学習モデルが何らかの仕方で対象を理解しているとしても、依然として、ディープラーニングモデルの中身はブラックボックスで、結局その「理解」は、人間が対象を理解することに何の貢献も果たさないのではないか。それなら、結局のところ、機械学習が理解を不要にするという見解は正しいのではないか、と。

だが、これに対しては、次のように再反論したい──いや、人間の理解も、そもそもブラックボックスじゃないかと。何らかの対象、例えば述語論理や複式簿記民法を深く理解しているひとが周りにいたとして、そのひとが対象をどのように理解しているか、それもまた周囲の人間にとっては不透明だろう。

つまり、ブラックボックスであることは、機械学習の特性ではなく、人間の理解も含め、理解というものにそもそも備わっている特性ではないだろうか。

対比をするなら、理解と違って、知識や理論は、他人とシェアしやすいようにできている。わたしたちは、本や論文を読んで知識を互いに共有しあったり、理論を他人とシェアすることができる。しかし、理解はそもそもシェアできる対象ではない。

そのように考えれば、理解と機械を対立させる見方はますますよくわからないものになる。機械学習ブラックボックスであることは、AIが理解をもたないことではなく、むしろ理解していることを意味しているからだ。

*1:この記事は書きかけでしばらく放置していたので、今はもうそんなに話題になっていない。

*2:この例を聞いて、全然だめじゃないかと思うむきもあるだろうが、なんでそんなことになってしまうのかというと、BERTはそもそもテキストからの入力だけを使って学習しているので、実際には「家」も「人間」も見たことがないという問題もあるのではないかと思う。

SFマガジン2020年6月号

SFマガジン 2020年 06 月号

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  • 発売日: 2020/05/25
  • メディア: 雑誌

SFマガジン2020年6月号に掲載されていた短篇群がどれも良かった。

英語圏の最近のSF短篇が載ってるのかー。紹介見るとおもしろそうな作品が多いので読むかなー」くらいの気持ちで読みはじめたのだが、読むうちに「あれ、これ、掲載作全部おもしろくないか?」となったので、出ているうちに感想を書くことにした。

劉慈欣「鯨歌」

これはおそらく特集の一部ではないが、『三体』の著者のデビュー作。とある方法を使って、麻薬の密輸をする話。『幼年期の終わり』でも似たようなネタがあったなーと思った(わかりにくいネタバレ)。

P・ジェリ・クラーク「ジョージ・ワシントンの義歯となった、九人の黒人の歯の知られざる来歴」

ジョージ・ワシントンが買った九本の歯の来歴がひとつずつ語られる。魔法が存在する仮想の歴史になっており、九本の歯の持ち主はそれぞれ何らかの形で魔法と関わりをもっている。

主にこの作品の紹介を見て、「なんだそりゃおもしろそう」と思って買った。歴史に奇想とホラ話を混ぜた感じの短篇で、期待通りおもしろかった。ブラックカルチャーと奇想を組み合わせたという点では、以前読んだヴィクター・ラヴァル『ブラック・トムのバラード』などにも少し似ているかもしれない。

アマル・エル=モータル「ガラスと鉄の季節」

鉄の靴を履いた女と、ガラスの山に住む女。呪われたふたりの女が出会う。ガールミーツガールもの。

ゼン・チョー「初めはうまくいかなくても、何度でも挑戦すればいい」

竜になろうとして失敗しつづけていた蛇(イムギ)が、昇天を邪魔した人間を食べてやろうとして、人間の女性に化け、物理学科の院生(女性)に近づく。

前半は伝説風なんだけど、途中から急に現代の話になって、院生と蛇のロマンスになる。これもガールミーツガール。

おそらく今号の表紙のイラストは本作をイメージしたものだと思われる。

今回の特集では、ジェリ・クラークとこのゼン・チョーが好きだった。

わたしは基本的に、人間以外のものと人間の関わりを書いた作品が好きなので、これももちろん大好き。蛇が人間のことがあまりよくわかっておらず、ちょくちょくヘンなかんちがいをしている(院生のことはおおむね僧侶だと思っている)辺りなど、すごく良かった。何ていうか、民話風の想像力と、現代的な感覚を組み合わせたポップな感じで、「日本のマンガとかでこういうのあるな」と思った(九井諒子の短篇っぽいかもしれない)。ゼン・チョーはもっと読んでみたい。

キャロリン・M・ヨークム「ようこそ、惑星間中継ステーションの診療所へ——患者が死亡したのは0時間前」

なんとゲームブック形式。ゲームブック形式と言っても、実際はほぼ直線に読めるけど。

「神経科学に触発された人工知能」

仕事の関係もあって、人工知能ディープラーニングに関連する論文は結構読んでいるのだが、たまにはこのブログでも紹介しようかなと思ったので紹介することにする。と言っても、あまりに専門的なものはわかりやすく紹介できる自信がなかったので、比較的マイルドなレビュー論文にした。

Hassabis, Demis & Kumaran, Dharshan & Summerfield, Christopher & Botvinick, Matthew. (2017). Neuroscience-Inspired Artificial Intelligence. Neuron. 95. 245-258. 10.1016/j.neuron.2017.06.011.

https://deepmind.com/research/publications/neuroscience-inspired-artificial-intelligence

神経科学インスパイアドAI」というタイトルがついているが、これはDeep Mindの研究者たちによる、神経科学から人工知能研究への影響のレビュー論文だ。

初期の人工知能の研究は神経科学や心理学と密接に絡み合っており、先駆者の多くは両方の分野にまたがっていた。しかし最近は相互作用はそれほど一般的ではなくなっている。一方、このレビューでは、神経科学の重要性を主張している。ただし、「神経科学」という語はものすごく広義に使うと宣言されており、おそらく神経科学だけではなく心理学や認知科学も含まれている。人間や動物の知能に関する研究をまとめて「神経科学」と呼んでいるようだ。

AI研究に得られるメリットとして著者らがあげるのは、以下のふたつだ。

それぞれ科学哲学で言うところの「発見の文脈」「正当化の文脈」と言えなくもないかもしれない(ただし、後者は正当化の文脈と言うには弱いし、正当化の文脈にはほとんど関わらないというところがむしろこの種の影響関係の特徴かもしれない)。

もちろん人工知能をつくる上で、生物学的な妥当性にそこまでこだわる必要はない。工学的には動くことが重要であって、生物的妥当性は手段にすぎない。この意味で、生物学的妥当性はあくまでもガイドであり、厳密な要件ではない。

また、著者らは、ここでデイヴィド・マーによる生物学システムの理解のための「3つの分析レベル」を参照した上で、人工知能に関わるのはもっぱら「計算論的レベル」と「アルゴリズムレベル」といった、抽象的な機能のレベルだけであると述べている。

  1. 計算論的レベル: システムのゴール
  2. アルゴリズムレベル: ゴールを実現するためのプロセスと計算
  3. 実装レベル: 生物学的基盤の上でアルゴリズムを実現するメカニズム

このレビューは「過去」「現在」「未来」という3つの項目にわかれているので、以下でもこれに沿って紹介していく。

過去: 深層学習と強化学習

現在のAI研究にとって極めて重要な2つの分野、深層学習と強化学習の起源は、どちらも神経科学にある。深層学習はニューラルネットワークの手法のひとつであり、言うまでもなく「ニューラルネットワーク」は神経科学由来だ。さらに、深層学習で使われる多くの技法、例えば、現在でも画像処理でよく使用される畳み込みニューラルネットワーク(CNN)は哺乳類の視覚野の研究に触発されている。また、ドロップアウトなどの、正則化のための技法も、神経科学からヒントを得たものだ。

また、現代のAIの第2の柱は、「強化学習」であるが、これはもともともと動物学習の研究に着想を得ている。 特に、強化学習の領域で使用されるTD学習(時間差分学習)は、動物の条件づけ実験の研究と密接に関わっていた。動物の学習の研究にヒントを得て、AI研究でTD学習が提案され、それが実験心理学にフィードバックを与えたという流れもあったらしい。

現在

現代のAI研究は、神経科学との関わりが薄れているが、それでもいくつかの領域では神経科学に触発された例が見られる。著者らは、以下の4つの例をあげている。

  1. アテンション(注意機構)
  2. エピソード記憶(Experience Replayなど)
  3. ワーキングメモリ(LSTMなど)
  4. 継続学習

正直、この辺で触れられている技術については「それはこじつけでは?」というものもないではない。例えばAIにおける「アテンション」というのは、行列に対するある種の演算を「アテンション」と呼んでるだけなので、人間の注意機構とは、言うほど共通性がないのでは?と思う。アテンションによって情報の取捨選択が可能になり、人間や動物の認知に似た処理が可能になるというのはわからないでもないが。

また、著者らは、強化学習におけるExperience Replayがエピソード記憶に相当すると言う。しかし強化学習におけるExperience Replayって、単にゲームのプレイログを蓄積して学習に使うだけなので、これが「エピソード記憶」に似ているかというのも疑問。だが、詳細を読むと、実際Experience Replayは、哺乳類の学習メカニズムに関する理論にインスパイアされているし、さらに強化学習で使用される「優先度付きExperience Replay」に相当するものが、哺乳類の脳にもあるかもしれないといった対応関係もあるのだそうだ。

未来

AIと神経科学の交流が有望であり、重要な領域として、著者らは以下をあげる。

  1. 物理世界の直観的理解
  2. 効率的学習
  3. 転移学習
  4. 想像と計画
  5. 仮想脳分析

1はAIに物理世界のメンタルモデルを構築させようというやつ。AIに時間とか空間とか対象などの基礎概念を身につけさせると楽しいね。最近話題の「世界モデル」などもこの一種かもしれない(この論文より後に出た論文なので、ここでは紹介されていない)。

2と3は、少ないデータで効率的に学習させたり、汎用的なスキルを身につけさせる。動物学習や発達心理学で研究されてきた「学習の学習」(メタ学習)が、強化学習でも使われている。

4はAIにシミュレーションと行動計画をさせる。この辺は人間や動物の脳からヒントを得られそう。

5は、「神経イメージング」など神経科学による解析ツールを、ニューラルネットの解析にも利用するというアイデアらしい。

最後に、「神経科学からAI」だけではなく「AIから神経科学」への影響もあるよということで、強化学習におけるTD学習がその後動物学習の研究でも使用されるようになった例や、機械学習で広範に使用されるバックプロパゲーションが動物の脳にもあるかもしれないといった研究が紹介されている。

『失われた時を求めて』を読み終わった

ついに『失われた時を求めて』の最終巻である14巻を読み終わった。記録によると、2019年4月1日に1巻を読み終わっているので、およそ1年ちょっとの間、読みつづけていたらしい。ちなみに前半は光文社古典新訳文庫、後半は岩波文庫で読んだ(光文社版はまだ6巻くらいまでしか出ていないはず)。

つらい戦いだった。正直言ってこれまでの読書人生の中での最難関と思うくらいにはつらかった。何がつらいかというと、途中までまったくおもしろさがわからなかったことだ。8巻くらいでようやくコツをつかみ、それ以後は楽しく読めるようになったのだが、そこにいたるまではまったくおもしろさがわからず、本当につらかった(むしろその状態で8冊も読んだという我慢強さに感心してほしい)。

何がつらかったか。ひとつには趣味の問題がある。小説というものを、仮に、「何が起こったか(出来事)」と「それに対して何を感じたか(思念)」の2つの構成要素に区別することが可能であるとすると、プルーストの場合、両者の割合は出来事対思念が1対9であり、圧倒的に思念の側に分量が割かれる。『失われた時を求めて』は出来事を描く小説ではなく、思念の小説である。だが、わたし自身は、どちらかと言えば、小説には出来事を描いてほしいと思う(なんだったらヘミングウェイやチャンドラーのように即物的に出来事だけ書いてほしい)。したがって、とにかく出来事が起こらないこの小説になじむのは大変だった。

もちろん、出来事が起こらないと言っても、前半の方は、少年時代のエモいエピソードも数々あり、「スワンの恋」や「花咲く乙女たちのかげに」などの恋愛のエピソードもあって、ふりかえって考えれば読みやすい方だったと思う。

それ以上に輪をかけてつらかったのは——これは読んだ人の多くが同意してくれるのではないかと思うが——パーティの場面だ。「ゲルマントの方へ」などのパーティがつづく部分は本当につらい。そこで主に描かれる主題は、「何とか伯爵夫人が自慢話ばかりしていておもしろい」「何とか公爵夫人の言い回しが変わっていておもしろい」といった話題だ。

ひょっとすると、当時の読者には「あるある」的なおもしろさがある描写なのかもしれないが、19世紀フランス社交界のあるあるを語られても、まったくピンと来ない。おもしろい言い回しの話も、「普通こういう場面ではleを使わないのに、leを使っているからおもしろい」といったフランス語の話なので、まったくピンと来ない。さらにそれが本一冊分くらいはつづく。

この辺りで、挫折しそうになったので、対策を立てようと思い、鹿島茂『「失われた時を求めて」の完読を求めて』を読んだが、これを読んだのは正解だったと思う。おかげでプルーストの手の内がある程度わかるようになり、だいぶ読みやすくなった。

私の考えでは、『失われた時を求めて』には「イメージと実態のズレ」「嫉妬」「時間」という3つくらいの主題があって、それが手をかえ品をかえ、さまざまな形で登場するのであるが、参考書を読んだおかげで、何となくその辺りの関係がつかめるようになった。

思うに、プルーストの重要な魅力のひとつは、「よく考えるとすごく普通のことしか起きてないのだが、語りを読んでいるうちに、何かすごいことが起きているような気がしてくる」という観念の詐術にあると思う。起きていることも言っていることも、よくよく考えると普通のことなのだが、プルーストの観念的な語りによって、いつの間にか、超越的で観念的な世界に高められるのだ。

例えば、『失われた時を求めて』の中で繰り返されるモチーフのひとつに、「イメージと実態のズレ」に関するものがある。これは要するに「名前や顔だけを見て、イメージがふくらんでいたが、実物を見たら思ったより普通だったのでがっかりした」という話で、本書では非常に重要なモチーフのひとつで、語り手は、人であれ土地であれ、とにかくさまざまなものにイメージをふくらませて、その後幻滅することになる。これなども、起きている現象はよく考えるとすごく普通のことだし、プルーストが書いているのでなかったら別におもしろい話にもならないような気がするのだが、プルーストが書くと、ふくらんだイメージのイデア的な崇高さ・近づきがたさが高められ、何かすごいことが起きているような気分になる。

また、このふくらんだイメージの極限に、「嫉妬」という状態があって、この状態に陥ったスワンと語り手は、「恋人に裏切られているのではないか」という妄想にかられ、さまざまな奇行に走る。この辺りもプルーストの筆致だけ読んでいると、ものすごく観念的な話をしているように見えるのだが、実情としては、わりと下世話な話をしているのである。

小説の結末の方で、語り手は、友人の娘であるサン=ルー嬢という少女に出会う。そして、このサン=ルー嬢こそ、分かたれた二つの世界、「ゲルマントの方」と「スワン家の方」を結びつける存在——要するにゲルマント家とスワン家の両方の血縁——であることを見出して驚愕する。しかし、よく考えると、これは要するに近所の人二人が結婚して娘を生んだというだけなのである。

こういう書き方をすると、まるで文句を言っているかのようであるが、当然そんなことはなく、わたしは大変楽しんで読んだ。一度プルーストの語り口に乗ってしまえば、その観念の世界が展開していくのが楽しみになり、世界がプルースト的に見えるようになるという魅力のある小説である。

『判断力批判』の謎

カントの『判断力批判』という本は主にふたつの事柄について論じている。美的判断と、自然に関する目的論的判断についてだ。

だが、ここには大きな謎がふたつある。

  1. なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。
  2. 特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか。

驚くべきことに、『判断力批判』という本を読んでも(少なくとも、さらっと読んだだけだと)、この謎の答えはわからないのだ。少なくともわたしは読んでもよくわからなかったので、実は何度もこの疑問の答えを調べようと思っていた。最近改めて調べて、ようやく半分くらいはわかったので、答えをまとめておこうと思う。書いておかないと、また忘れて調べるはめになりそうなので。

ちなみに、この疑問は、実は調べ方も少し難しい。『判断力批判』では、本の中でも、一部をのぞいてほとんど判断の話をしていない(美的判断の項目では、判断力という言葉自体ほぼ出てこない)ので、たとえばカントの美的判断論だけを追っていると、カントの美的判断論がなぜ『判断力批判』というタイトルの本に入っているのかよくわからないままになる。『判断力批判』は、美学の古典のひとつとされているのだが、美学の話だと思って読むと、後半なぜか生物学の話がはじまってびっくりする。

一方「判断」というキーワードで追おうとしても難しい。『判断力批判』では、判断一般の話はあまりなされていないので、「カントの判断論」みたいな解説を読んでも、『判断力批判』についてほとんど触れられていないのだ。わたしは当初、上記の疑問について調べようと思って、スタンフォード哲学事典の「カントの判断論」を読んだのだが、『判断力批判』の話自体がほとんどなされておらず、余計に混乱してしまった。

だが、改めて調べたら、スタンフォード哲学事典には「カントの美学と目的論」という項目もあって、こちらである程度解説されていた。

なぜ判断一般ではなく、このふたつの事柄を論じるのか

なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。

この疑問は、ある程度までは簡単に答えることができる。というか、これはわりとちゃんと書いてあるので、まじめに読んでいればそれほど迷うようなことではないのかもしれない。

カントは判断力を規定的判断力反省的判断力にわけている。規定的判断力は、与えられた個物を与えられた概念に包摂する能力だ。個物を見て、「これは猫だな」と判断する場合は規定的判断力を使用している。『純粋理性批判』などで論じられている判断は、基本的にこちらの意味だ。

一方『判断力批判』では反省的判断力というものが導入されている。これは、概念があらかじめ与えられていない場合に、個物に対して、概念を発見してくる能力であるとされる。この説明だけだとわかりにくいが、反省的判断力の例としては、科学者が新種の生物を発見して分類する事例などが念頭に置かれているようだ。つまり、単に既存の原理を適用するのではなく、新しく原理を打ち立て、概念を新たに作り出すような場合にはたらくのが反省的判断力ということになる。

規定的判断力の場合、判断は、概念適用の能力である悟性の原理に従い、独立した力を行使するわけではない。一方、反省的判断力の場合は、もっと特別な能力が必要とされる。『判断力批判』は、主として、この反省的判断力の批判をターゲットとしている。

また、カントは、美的判断と、自然の目的論的判断には、どちらも反省的判断力がはたらいていると考えている。つまり、どうして『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般の話ではなく、特別な判断の話をしているかというと、『判断力批判』は、判断が独自の能力を行使しなければならないような、特殊な事例(反省的判断力の事例)を対象としているからだというのが答えにあたるだろう。

なぜ美的判断と目的論的判断なのか

特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか

おそらく、この疑問の答えの一部は、「どちらも反省的判断力がはたらく事例だ」というものになるだろう。また、カントは、美的判断と、自然に関する目的論的判断の両方に対して「自然の合目的性」というキーワードを使っており、おそらく「どちらも自然の合目的性に関わる」という共通点もあるのだろう。

一方、反省的判断力がはたらく事例は、このふたつ以外にもありそうな気もするのだが、なぜこのふたつだけなのか、というとそれはよくわからない。

また、自然の合目的性という語が両者の事例で本当に同じ意味で使われているのかというと、それもよくわからない。「科学者が新種を発見した時に、自然が合理的にできていることを想定しつつ分類する」という事例と、「自然美を感じるとき、自然が秩序をもっているように感じられる」という事例が両方「自然の合目的性」と呼ばれているようなのだが、正直あまり同じ話をしているように見えない。スタンフォード哲学事典の記事によれば、この辺りは解釈者でも意見がわかれており、カントは「自然の合目的性」という言葉をふたつの意味で使っていると考える論者もいるらしい。