Bernerd Williams, 「マクロプロス事件:不死の退屈さについての考察」

Williams, B., 1973, “The Makropulos Case: Reflections on the Tedium of Immortality”, in Problems of the Self, Cambridge: Cambridge University Press: 82–100.
Problems of the Self: Philosophical Papers 1956–1972 (Philosophical Papers 1956-1972)Problems of the Self: Philosophical Papers 1956–1972 (Philosophical Papers 1956-1972)


The Metaphysics of Death (Stanford Series in Philosophy)The Metaphysics of Death (Stanford Series in Philosophy)

有名な論文。不死は退屈をもたらすがゆえに悪であるという主張を擁護する。カレル・チャペックの戯曲『マクロプロス事件』が元ネタになっている。いろいろとつっこみどころはあるが、不死の問題は自己同一性の問題なんだということを議論していて、そこがおもしろいところだと思う。

参考: 「マクロプロス事件」のオペラ版のあらすじ


この論文の前半で、Williamsは死がどういう点で害であるかを議論している。ここでWilliamsの死に関する立場が、現在主流の立場である反事実比較説(剥奪説)とは異なっていることは注目に値すると思う。Williamsによれば、死が害であるのは、私たちに生きつづける理由を与えるような「やりたいこと[categorical desire]」をできなくするからである。
反事実比較説は、「私が死んだ状態」と「私が死ななかった可能性の中でもっとも近い可能性」の比較によって、私が死によって何を失なうのかが決まるという立場だ。この立場によれば、死は、死ななければ得られた価値を奪うので害である。
反事実比較説では、つまらない欲求によっても死は害になる。私は毎週ジャンプを買って読んでいるが、死んでまでジャンプを読みたくはないし、ジャンプのために生きようとまでは思わない。この意味で、私のジャンプ欲は、死によってキャンセルされる。しかし反事実比較説によれば、たとえキャンセルされるとしても、もし死ななければ読めたであろうジャンプを読めなくなることは害である。
Williamsはもっと別の考え方をしていて、死が悪いのは、「死んでもやりたいこと」「これをやりたいから死にたくない」という重要な欲求が満たされなくなるからだとしている。例えば、「哲学の深奥を極めるまでは死ねない」という欲求は、Williamsの言うカテゴリカルデザイアに当たるかもしれない。
批判者はしばしば無視しているが、Williamsの議論は基本的にこの「やりたいことがあるから死にたくない」という姿勢を前提にしている。この論文の主張は、「やりたいことがあるから死にたくない」という人にとって不死は救いにはならないだろうというところにある。
なお、剥奪説とWilliamsの立場の違いについては以前紹介したBen Bradley,&Kris McDanielが批判的に言及している。
Ben Bradley, Kris McDaniel「死と欲望」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


カテゴリカルデザイア説を取るかぎり、不死なら何でもいいというわけにはいかない。例えば、性格や記憶を刷新して輪廻転生のように複数の人生を生きるのでは意味がない。不死の存在として生きつづけるのは私自身でなければならないし、未来の私は、重要な点で今の私と連続していなければならない。なぜならば、あくまでもやりたいことがあるから死にたくないのが前提にあるから、欲求は保持されていなければならない。また、記憶や性格も保持されていなければならない。ほとんど別の性格になってしまった未来の私が哲学の深奥を極めたとしても、それはが哲学の深奥を極めたことにならないからだ。
しかしこの制限を課し、性格や記憶を保持したまま生きつづけていけば、必ず退屈する。この主張はかなり疑問の余地があるものだが、おそらくWilliamsはこの「自己である」という制限をかなり厳しくとっている。このことは、退屈を忘れるくらい夢中になるものがあったとしても、夢中になることは自己を失うことだからやはり問題があるという議論にも現われている。
Williamsによれば、「私でありつづける」ことと「退屈しない」ことは厳しく対立しており、どちらかしか選ぶことはできない。


また、なぜ退屈がいけないかという議論も少しあって、退屈することは単に苦痛だから悪いのではなく、退屈すると環境に対して貧しい関係しか取ることができない。元の戯曲でも不死になったEMは、最後には冷たい人間になったと書かれているらしい。つまり、退屈が極まると、結局は元の性格ややりたいことに対する情熱を保持しつづけることはできない。
最後で少しだけ「人生の意味」に対する言及があるが、やはりWilliamsのこの議論は不死は人を不幸にするというものではなく、不死によって人は人生の意味を失なうという議論として解釈されるべきものなのだろうと思った。



『チャペック戯曲全集』も買ったので今度読んでみよう。
チャペック戯曲全集チャペック戯曲全集