ピピンのフィルム・ノワール論

ロバート・B・ピピンという哲学者がいる。ヘーゲル研究で有名だが、実は映画の本をたくさん書いている。私はフィルム・ノワールが好きなので、ピピンフィルム・ノワール論を書いているのを知り、さっそく読んでみた。とりあえず一章まで読んだので紹介する。

ピピンの基本的なアプローチは映画を哲学の実践として読むというもので、『他の手段による哲学Philosophy by Other Means』という方法論の本も書いている。要するに映画は映画という「他の手段」を用いた哲学であるということらしい。雰囲気としてはカヴェルの映画論などに近いかもしれない。哲学的に作品を読むというのは、なかなか難しい試みだと思うのだけど、ピピンのやつは今のところ読んだ感じでは結構おもしろい。

フィルム・ノワールを扱う本書の場合はタイトルにある「宿命論fatalism」が重要なキーワードになる。おそらくだが、フィルム・ノワールのキャラクター類型である「宿命の女(ファム・ファタル)」の「ファタル」から取っていると思われる。

この場合における「宿命論」とは何か。ざっくり言えば、〈自分の力ではどうにも変えられないアリ地獄的状況に巻き込まれること〉と言い換えられるだろう。フィルム・ノワール作品の多くでは、主人公は不可避的に破滅に巻き込まれていく。

ピピンの表現を引用すれば「キャラクターは熟慮し、さまざまなことをしようとするけれど、その哀れな姿はまるで、自身を乗せている乗り物の上で、必死にワイヤを引いたり、ボタンを押したりしているのに、ワイヤもボタンも乗り物につながっておらず、キャラクターにはまったく無関係なコースを進んでいくという風に見える」(p.26)

また別の言葉としてピピンは「ショーを仕掛ける側running the show」というフレーズを引用している。フィルム・ノワールの主人公は「ショーを仕掛ける側」に回ることができず、他人のショーに踊らされる存在である。

ピピンはこれを行為論の問題として見る。つまり、自由、自律、合理性といった理想的行為者の条件からの逸脱を描くジャンルがフィルム・ノワールなのである。フィルム・ノワールの主人公たちは、自身が何をやっているのか、どうしてそんな状況になっているかもわからないまま、破滅に突き進んでいく。それは「決して状況は変えられない」という同時代のアメリカの絶望的な感覚を描いたものでもある。

一章では、ジャック・ターナー監督の『過去を逃れて』が扱われる。『過去を逃れて』は──フィルム・ノワールではよくあることだが──おそろしくプロットが複雑で要約しづらいのだけど、基本的には「過去から逃れられない」という話である。ものすごくざっくり言うと、ジェフという探偵が、キャシーという女にだまされ、犯罪に巻き込まれ、そこから逃げようとするが逃げきれなかったという話である。

まさにピピンのいう宿命論の映画である。ピピンが引用している通り、作中には「他にどうしようもなかった/選択肢がなかったI had no choice」というセリフが登場する。その言葉を口にするのはキャシーであり、キャシーは嘘をついているのだが、主人公であるジェフはどんどん「選択肢がない」状況に巻き込まれていく。

これはピピンというより私の感想だが、『過去を逃れて』という映画の魅力は、キャシーという特異なヒロインが真の姿を現わす後半の展開にあると思う。キャシーにだまされていたことを知ったジェフは、マフィアのボスに彼女を突き出す。だが、キャシーはあっさりマフィアのボスを返り討ちにして殺してしまうのだ。

ここの展開はすごいと思う。そもそもジェフは、彼女をマフィアのボスから助けようとしていたのだが、キャシーはいっさい助けを必要としていなかったことがわかるのだ。この場面についてピピンは次のように書いている*1

つい先ほどまでひどくグラマーで美しく媚態に富んだ姿を見せていたのに、今や彼女(キャシー)は性的なものから脱しかけているように見える。まるで、今や、ありとあらゆる本当の権力のカードを手にして、「ショーを仕掛ける」側のハイパー行為者であり、もはや性的媚態(愛されるという受動的権力)に頼ることを必要とせず、それを喜んでいるかのようである。p.47

つまり「選択肢をもたずhad no choice」「過去から逃がれられない」のはジェフだけであり、キャシーは自身の力で状況を変えられるハイパー行為者だったのである。

よく言われるように、ファム・ファタルの描写は現代の目から見ると気になる点がないわけではない。よくあるパターンでは「悪い女にだまされてフラフラ悪事に巻き込まれてしまう」主人公が描かれるのだが、どうしても女に責任を押しつけているように見えるし、それが女性嫌悪的と言われることもある*2

だが、『過去を逃れて』のキャシーは少し違っている。これは「悪い女にだまされたけど、悪い女は罰されました。めでたしめでたし」という話ではないのだ。キャシーは、悪の側に突き抜けることで、超サイヤ人ならぬ超ファム・ファタルになるのである。

*1:「性的なものから脱して」の部分は最初何を言っているのかよくわからなかったけれど、どうも、この場面のキャシーの服装が地味なものに変わっているという指摘のようである。

*2:ちなみにフェミニズム批評の観点からフィルム・ノワールを扱った論文集としてE.アン カプラン編水田宗子訳『フィルム・ノワールの女たち』というのがある。これは翻訳も出ていておもしろいのでおすすめ。