『「ふつうの暮らし」を美学する』の手前で

青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』という本が光文社新書から出ました。日常美学という美学の一分野の入門書で、著者はこの分野の第一人者(おそらく日本にひとりしかいない)です。詳しい目次がAmazonから見れるので、興味のある人は見てみるとよいでしょう。

私が宣伝するまでもなく売れてそうだし、内容紹介は著者がすでに書いているため、私はこの本を読む上で知っておくと役立つかもしれないことを書いておこうと思います。

以下、本の要約や感想からかけ離れたことをしばらく書くので、そのつもりで読んでください。日常美学という分野と関係があり、美学者は知っているけれど、この本を読む人はひょっとすると知らないかもしれないことを書きます。

さて、書きたいことは以下です。

  1. 美学者のあいだでは、美(美的判断、美的特徴、美的価値、美的経験)に関して、広く合意された定義はない。
  2. そのため、美に関する複数の捉え方が流通しており、どの規定を採用するかで、美に含まれる範囲が微妙に異なる(以下「規定」と呼ぶ)。
  3. 一部の規定からすると日常生活における美的判断は美の一種に含まれるが、一部の規定ではそうではない。

これが「日常美学」という分野の環境の一部を形成している事情です。以下もう少し詳しく解説していきます。

1について。「分野の根幹にある概念に合意がなくても大丈夫か」と思われるかもしれないですが、これは哲学分野では普通です。なぜそうなるかというと、基礎概念の定義に関して合意が得られることは、哲学分野(の少なくとも一部)では、研究のスタート地点ではなくゴール地点だからです。みんなが基礎概念の定義に合意すると、やることがなくなってしまうので、分野ごとなくなります。これはこれで興味深い話ですが、本書と直接関係ないので深入りするのはやめましょう。

2について。美に関しても当然互いに対立しうる複数の規定があり、諸派あります。諸派の地図を描く部分は、中立的にやるのはちょっと難しいですが、さわりだけ書いてみましょう*1

規定A: 感性

感性による規定: 美的判断は、感性を使った判断だよ。

とりあえずこれがメジャーな規定ですね*2。本書の中にも登場しています(二章)。

よくある説明はこんな感じです——私たちはものを見て「優美」「派手」「バランス良い」といった述語を使うことがありますね(銭さんによるもっと網羅的なリスト)。こういう述語を適用するときは、ルールや基準みたいなものを杓子定規に当てはめるのではなく、感性やセンスをはたらかせる必要がありますね。美的判断というのは、このように感性を使った判断なんですよ。

規定B: 無関心性

無関心性による規定: 美的経験は、日常の実践的関心から離れた特殊な知覚のあり方だよ。

「無関心性」という用語はカントに由来します。この規定にはあまりまとまりがなく、むしろ複数の規定の集合体と捉えたいのですが、とりあえず、〈美術鑑賞のような特殊な知覚のあり方を美の典型例と捉える立場〉としておきたいと思います*3

私たちは日常生活において、「ものをじっくり見る」ということをあまりしないのですが、絵画を鑑賞するときは、じっくり見ます。じっくり見るだけではなく、何か特殊なことをいろいろやっているかもしれません。このような、〈絵画鑑賞に見られるような特殊な知覚のあり方〉を「美的経験」と捉えるという派閥があります。芸術鑑賞の特殊性をどう特徴づけるかに関しては深入りすると、さらに派閥が分かれていきますが、とりあえずざっくりリスト化すると、以下のような特徴がよく挙げられると思います。

  • 実践的関心から離れている(無関心性)
  • 対象の鑑賞それ自体が目的になっている
  • 注意の向け方が特殊である(「対象に関して集中し、性質に関して分散している」(ナナイ)など)

脱線

脱線です。

規定Aと規定Bはどちらも哲学史的にはカント『判断力批判』の影響下にあります(カントが最初とは言っていない)。

しかしカントが美の典型例をどう考えたのかは謎です。『判断力批判』は悪名高くも、芸術美をほとんど扱っていません。むしろ芸術美をマイナーリーグに追いやっています。「自由美」(美の典型)と「依存美」をわけた上で、芸術美の大半は自由美ではなく依存美であるという風に述べているからです(ただしカント解釈も諸説あり)。

一方、カント以降の哲学者は、もっぱら芸術美を典型例として扱う傾向にあったとは言えると思います。

規定Aと規定Bの対立点

ここでようやく最初にあげた3の話になります。日常美学の話をしたいので、「部屋が片づけられていて、すっきりしている」という日常の判断を考えてみましょう。

これは規定Aだと美的判断の一種になりますが、規定Bだとおそらく違います。規定Aにのっとると、「部屋がすっきりしている」というのは当然感性に基づく判断でしょうし、「すっきり」というのは「優美」という語と同じカテゴリーに見えますね。

一方、規定Bだとあやしいです。片づけ状況に関する判断は、実践的関心から離れていませんし、絵画鑑賞とはあまり似ていません。いくら片づけられた部屋がうれしいからといって、絵画を見るようにじっくり部屋を鑑賞する人はあまり存在しないでしょう。

「じゃあ日常美学というのは規定Aに基づく美学なのか?」と思う人がいるかもしれません。それはそれでちょっと違います。むしろ規定Aだけを取ると、上記のような判断が美的判断の一種なのはあまりにも当たり前で、逆に何も「新しい」ところがなくなってしまいます。

この辺は著者もよくわかっており、本書の冒頭でも日常美学は何が「新しい」ものなのかという問題に触れています。日常美学という分野は、「新しい」という形容詞をつけられがちな分野なのですが、いったい何が「新しい」のかは結構微妙な問題なんですね。

日常美学が「新しい」のは、規定Bに見られるような、芸術鑑賞を美の典型とする立場と突き合せた場合です。そのように考えると、日常美学にとって重要なのはむしろ規定Bであると言えるのではないかと思います。別の言い方をすると、〈芸術鑑賞を美の典型とする世界観〉をある程度真剣に受け止めた上で、それとは異なる世界観として〈日常の美〉の捉えられないかというスタンスですね。

つまり規定Bは、日常美学にとって批判の対象であるとともに、重要な存在でもあるという緊張があるわけです。この辺は突き詰めて考えていくと難しいですし、ここで結論じみたことを述べたいわけではないので、この辺でやめます。個人的には、この辺の緊張関係がわかっていると、日常美学の話が楽しく読めるのではないかと思います。

感想

以上で終わってもいいんですが、あまりにも本文に触れていないので最後にちょっとした感想を書いておきます。個人的に一番楽しく読めたのは、第四章の「親しみと新奇さ」でした。私自身は日常美学の議論を読むとき、文学用語でいう「異化」(見慣れた日常の事物を非日常的なものに変える)の楽しみを見出している部分があります。つまり、自分の中であまりにも当たり前になっていて、見慣れているがゆえに「不可視」になっているものが改めて可視化され、意外な部分が浮かび上がってくるという感覚ですね。もっと言うと私は「当たり前すぎて見えないもの」が急に見えるようになる瞬間が好きなんです(哲学の議論というのは一般にそういう作用をもつことがあります)。

四章の議論は、「見慣れた場所」「新奇な場所」という対比を扱っており、見慣れた場所がまさに見慣れているがゆえに、それ自体としては注意を向けられなくなっているという事実に目を向けています。一方、では見慣れた場所は「無」なのかというと、それも違っていて、私たちはさまざまな仕方で、見慣れた風景を新奇なものに変えていっている。

こうした議論を考えること自体が、見慣れた場所を異化してくれるような作用をもつ。これが楽しい部分です。

*1:一般論として、地図を描くのはきわめて政治的な営みで、「ここはどっちの領土に属するのか」という問題がたくさん登場します。私自身はそれほど強いこだわりはないつもりですが、完全に中立というのは無理でしょう。

*2:専門家向けの注釈。この規定の代表例はフランク・シブリーです。ちなみになぜさっきから「定義」ではなく「規定」と書いているかというと、これが定義かどうか微妙だからです。この規定を定義として洗練させるには「感性とは何か」について説明しなければならなさそうですが、それは大変なので普通はスキップして、美的述語の代表例をあげていくというアプローチが主流になっています。

*3:専門家向けの注釈。規定Bを重要視した人の例としてベンス・ナナイ、ジェラルド・レヴィンソン、モンロー・ビアズリーなどをあげておきます。