カントの『判断力批判』という本は主にふたつの事柄について論じている。美的判断と、自然に関する目的論的判断についてだ。
だが、ここには大きな謎がふたつある。
- なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。
- 特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか。
驚くべきことに、『判断力批判』という本を読んでも(少なくとも、さらっと読んだだけだと)、この謎の答えはわからないのだ。少なくともわたしは読んでもよくわからなかったので、実は何度もこの疑問の答えを調べようと思っていた。最近改めて調べて、ようやく半分くらいはわかったので、答えをまとめておこうと思う。書いておかないと、また忘れて調べるはめになりそうなので。
ちなみに、この疑問は、実は調べ方も少し難しい。『判断力批判』では、本の中でも、一部をのぞいてほとんど判断の話をしていない(美的判断の項目では、判断力という言葉自体ほぼ出てこない)ので、たとえばカントの美的判断論だけを追っていると、カントの美的判断論がなぜ『判断力批判』というタイトルの本に入っているのかよくわからないままになる。『判断力批判』は、美学の古典のひとつとされているのだが、美学の話だと思って読むと、後半なぜか生物学の話がはじまってびっくりする。
一方「判断」というキーワードで追おうとしても難しい。『判断力批判』では、判断一般の話はあまりなされていないので、「カントの判断論」みたいな解説を読んでも、『判断力批判』についてほとんど触れられていないのだ。わたしは当初、上記の疑問について調べようと思って、スタンフォード哲学事典の「カントの判断論」を読んだのだが、『判断力批判』の話自体がほとんどなされておらず、余計に混乱してしまった。
だが、改めて調べたら、スタンフォード哲学事典には「カントの美学と目的論」という項目もあって、こちらである程度解説されていた。
なぜ判断一般ではなく、このふたつの事柄を論じるのか
なぜ、『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般についてではなく、このふたつの事柄を論じるのか。
この疑問は、ある程度までは簡単に答えることができる。というか、これはわりとちゃんと書いてあるので、まじめに読んでいればそれほど迷うようなことではないのかもしれない。
カントは判断力を規定的判断力と反省的判断力にわけている。規定的判断力は、与えられた個物を与えられた概念に包摂する能力だ。個物を見て、「これは猫だな」と判断する場合は規定的判断力を使用している。『純粋理性批判』などで論じられている判断は、基本的にこちらの意味だ。
一方『判断力批判』では反省的判断力というものが導入されている。これは、概念があらかじめ与えられていない場合に、個物に対して、概念を発見してくる能力であるとされる。この説明だけだとわかりにくいが、反省的判断力の例としては、科学者が新種の生物を発見して分類する事例などが念頭に置かれているようだ。つまり、単に既存の原理を適用するのではなく、新しく原理を打ち立て、概念を新たに作り出すような場合にはたらくのが反省的判断力ということになる。
規定的判断力の場合、判断は、概念適用の能力である悟性の原理に従い、独立した力を行使するわけではない。一方、反省的判断力の場合は、もっと特別な能力が必要とされる。『判断力批判』は、主として、この反省的判断力の批判をターゲットとしている。
また、カントは、美的判断と、自然の目的論的判断には、どちらも反省的判断力がはたらいていると考えている。つまり、どうして『判断力批判』というタイトルの本で、判断一般の話ではなく、特別な判断の話をしているかというと、『判断力批判』は、判断が独自の能力を行使しなければならないような、特殊な事例(反省的判断力の事例)を対象としているからだというのが答えにあたるだろう。
なぜ美的判断と目的論的判断なのか
特にこのふたつの事柄が選ばれた理由は何なのか。両者には何の共通性があるのか
おそらく、この疑問の答えの一部は、「どちらも反省的判断力がはたらく事例だ」というものになるだろう。また、カントは、美的判断と、自然に関する目的論的判断の両方に対して「自然の合目的性」というキーワードを使っており、おそらく「どちらも自然の合目的性に関わる」という共通点もあるのだろう。
一方、反省的判断力がはたらく事例は、このふたつ以外にもありそうな気もするのだが、なぜこのふたつだけなのか、というとそれはよくわからない。
また、自然の合目的性という語が両者の事例で本当に同じ意味で使われているのかというと、それもよくわからない。「科学者が新種を発見した時に、自然が合理的にできていることを想定しつつ分類する」という事例と、「自然美を感じるとき、自然が秩序をもっているように感じられる」という事例が両方「自然の合目的性」と呼ばれているようなのだが、正直あまり同じ話をしているように見えない。スタンフォード哲学事典の記事によれば、この辺りは解釈者でも意見がわかれており、カントは「自然の合目的性」という言葉をふたつの意味で使っていると考える論者もいるらしい。