Marcia Muelder Eaton, 「美的義務」

Eaton, Marcia Muelder (2008). Aesthetic obligations. Journal of Aesthetics and Art Criticism 66 (1):1–9.

美的理由について勉強するシリーズその2。

その1

「道徳的義務」や「認識的義務」が存在するのに対し、「美的義務」は存在しないと言われる。道徳的義務や認識的義務に反することは非難に値する。例えば、「他人のものを盗まない」とか「証拠の無いことを信じない」といった規範を受け入れなければ非難を受けるだろう。

一方、美的理由に従わないからといって真剣な非難を受けることは想定しづらい。美的理由は、道徳的理由や認識的理由とちがって、「オプショナル」だ。どれだけ美しい絵であれ、崇高な光景であれ、特に興味がないから見に行かないということは許されている。美的理由に従うことは、自発的な意志の問題であり、よくも悪くも義務による強制とは異なるのではないだろうか。

では美的義務は本当にないのか? 著者はこの論文で、美的義務の可能性を模索している。

著者が注目するひとつは、美的ジレンマだ。道徳的ジレンマに道徳的義務が現われるように、美的ジレンマには美的義務が現われるかもしれない。著者は現実の事例も架空の事例もたくさん検討しているが、わかりやすいのは、「焼ける美術館」のケースだ。火事で燃えさかる美術館からひとつだけしか絵を持ち出せないとすれば、どの絵を救出すべきか?

また、架空の例ではなくても、現実の絵画修復者はこれと同じようなジレンマに直面する。1980年に開始されたシスティーナ教会の復元では、色あせたフレスコ画が鮮やかに復元されたが、批判も多く、激しい議論があった。これについてはWikipediaの記事で詳しく説明されていてなかなかおもしろかったが、修復によって美術作品の長く親しまれた姿を取り除くことはジレンマを含んでいる。

もうひとつ著者が注目するのは、他人を人格として扱うことは、他人の人生を物語として尊重し、良いストーリーを語ることを含んでいるという論点だ。例えば、歴史上の人物を悪の象徴として歪めたり、逆に美化して語ることは許されるのかといった問題だ。

ただし、著者自身認めているように著者があげている例は、美と道徳の中間領域のような事例が多い。