描写の哲学における二視覚システム理論

まえおき

描写の哲学(絵・画像の哲学)における二視覚システム理論について調べたのでまとめる。最近 id:Aizilo さんが近年の描写の哲学の論点を紹介していたので、まあこれも最近のトピックということで。

描写の哲学、再訪:触図からディープフェイクまで - #EBF6F7

まず前提として知っておいてほしいのだが、人間を含む哺乳類には、二種類の視覚システムがそなわっている。網膜から脳にいたる神経経路が二種類存在し、それぞれが異なる機能を担っている。腹側経路は主に物体の形状認識に貢献し、背側経路は、動作の視覚的ガイドや位置の把握に関わる。なお、田中、鈴木、太田による『意識と目的の科学哲学』では、二つの視覚システムについて詳しく紹介されている他、哺乳類は、一度視覚が退化したあと、再び視覚が進化するという特異な進化を経験しているため、二つの視覚システムが存在するという興味深い仮説が紹介されていた。

ベンス・ナナイなどをはじめとする哲学者は近年、この二視覚システムの存在を画像知覚と結びつける議論を展開している。

マッセンと存在感

  • Matthen, Mohan (2010). Two Visual Systems and the Feeling of Presence. In Nivedita Gangopadhyay, Michael Madary & Finn Spicer (eds.), Perception, action, and consciousness: sensorimotor dynamics and two visual systems. New York: Oxford University Press USA. pp. 107.

近年の議論の端緒となったのはモハン・マッセンの2010年の論文である*1。マッセンがそこで問題にしたのは、視覚に伴う物体の存在感feel of presenceだ。実を言えば、その後の描写の哲学の議論では、あまり存在感を巡る論点は触れられていない印象があるが、一応紹介しておこう。この意味での存在感について理解するには、VR(バーチャル・リアリティ)と通常の二次元画像の経験を比較してみるとわかりやすい。以下の三つの経験について考えてみよう。(VRを体験したことがないとイメージしづらいかもしれないが)

  • 対面で、目の前にオレンジが見える
  • VRで、目の前にオレンジが見える
  • オレンジの写真を見る

対面およびVRの場合、オレンジを見る経験には、〈右側の方にある〉〈手を伸ばせば掴める〉といった感覚が伴っている。VR経験の場合、実際にはオレンジはそこには存在しないわけだから、この感覚は錯覚ないし幻覚であるわけだが、にもかかわらず、感覚があること自体は否定しがたいだろう。むしろ、その種の錯覚を与えることこそがVR体験のキモである。VRは、物が目の前に存在する感じ(フィール・オブ・プレゼンス)を擬似的に作り出すのだ。

もう少し一般的に言うと、対面知覚やVRの場合、対象は、自己を中心とする空間の中に位置づけられ(「前にある」「右にある」など)、行為可能性を付与される(「掴める」「持ち上げられる」など)。

ところが、普通の意味での二次元画像には、この存在感が欠如している。対面でも、画像でも、オレンジはオレンジとして認識できるにもかかわらず、オレンジの写真を見ても、私たちは、「手を伸ばせば掴める」とは感じない。絵の中のオレンジは、そもそも自分と同じ空間の中にあるように見えないのだ。他方、VR内のオブジェクトは、自分と同じ空間の中にあるように見える。これは普通の画像とVRの大きな違いである。また、これはいわゆる「絵のうまさ」「本物らしさ」みたいなものとは違う話である。というのは、VR上で提示されるオレンジ風オブジェクトがどれだけ拙かったとしても、依然として〈右側の方にある〉〈手を伸ばせば掴める〉という感じが伴うからだ*2

マッセンは、対面知覚に伴う物体の存在感を、背側経路を通じた背側視覚(運動視覚)と結びつけている。一般に、画像に描かれた対象は、腹側視覚(形状視覚)によって表象される一方、背側視覚には反応しない。それゆえ対面知覚・VRの場合とは違って、絵の中のオレンジには存在感が欠けているのだ。

ナナイと画像の二重性

  • Nanay, Bence (2011). Perceiving pictures. Phenomenology and the Cognitive Sciences 10 (4):461-480.
  • Nanay, Bence (2015). Trompe l’oeil and the Dorsal/Ventral Account of Picture Perception. Review of Philosophy and Psychology 6 (1):181-197.
  • Ferretti, Gabriele (2016). Pictures, action properties and motor related effects. Synthese 193 (12):3787-3817.

ベンス・ナナイは、マッセンの議論を発展させ、二視覚システムを、画像知覚における「画像の二面性」と結びつけている。画像の二面性は、哲学者ウォルハイムに由来する議論であり、大雑把に言えば、画像を見るとき、私たちは、画像表面(キャンバス、絵具)を知覚するとともに、画像内容(描かれたオレンジ)の両方を知覚するという立場である。

ナナイが最初にこの問題を扱ったNanay(2011)では、以下の四点が主張されている。

  • (a) 描写された光景は、腹側知覚によって表象される
  • (b) 描写された光景は、背側知覚されない
  • (c) 画像表面は、背側知覚によって表象される
  • (d) 画像表面は、必ずしも腹側知覚によって表象されるわけではない

表にすると以下のようになる。

腹側知覚(形状知覚) 背側知覚(運動知覚)
描写内容 ×
画像表面

これが言えると何がうれしいかと言うと、画像の二面性に関する神経科学的基盤があると言えるからである。つまり、描写内容の知覚と、画像表面の知覚に、それぞれ二種類の視覚システムが異なった仕方で対応していることになるのだ。

また、詳しくは紹介しないが、ナナイはこの議論を応用し、いくつか画像知覚を巡る現象に説明を与えている。

なお、その後ナナイは、Nanay(2015)で微妙に立場を変更しており、いわゆる「だまし絵」の場合、描写内容が背側知覚されることを認めている。つまり、この2015年の方の立場では、(b)が緩められており、描写対象が背側知覚(運動知覚)される可能性が認められている。簡単に言えば、だまし絵にだまされている場合、絵に描かれた対象は、鑑賞者にとって、自分と同じ空間に位置するように見えるのだ。

なお、描写対象が背側知覚(運動知覚)される場合があるというのは、実験などでも確認されているらしく、Ferreti(2016)でその辺りが詳しく紹介されていた。その辺を踏まえると(b)は以下のように変更すべきなのかもしれない。

  • (b) 描写された光景は、背側知覚されない
  • (b') 描写された光景は、必ずしも背側知覚されない

なお、画像が運動知覚されないというのは、VRとの比較ではわかりやすい反面、身体性を強く感じさせるような画像の場合は、むしろ運動知覚が重要そうな気もするので、その辺どうなってるのかなというのはぼんやり気になっている。

*1:追記: 2010年の論文が端緒と書いてしまったが、マッセンは2005年の著作でも同様の議論をしているようなので、「マッセンが端緒である」くらいの言い方にすべきだったかもしれない。

*2:ひょっとすると「立体感」と混同する人もいるかもしれないが、ここで問題にしているのは単なる「立体感」のことでもない。おそらく、存在感が生じるためには、目の位置を変えたときに別の角度から見えるといった条件もかなり重要であるように思われる。