Jesper Juul「ゲームはストーリーを語るか」

Jesper Juul, Games Telling stories?

https://www.gamestudies.org/0101/juul-gts/

ゲームの物語について勉強する2。

ゲーム研究の第一人者のひとりであるイェスパー・ユールのキャリア初期の論文を紹介する。

イェスパー・ユールはかつて、「ゲームは物語ではない」という主張を強く擁護していた。だが、その後単著である『ハーフリアル』では、この主張はかなり弱められ、むしろゲームは「フィクション + ルール」であるという、ゲームの物語性を半ば肯定するような融和的な立場に変化している。実際の主張内容が内実としてどの程度変化しているのかはきちんと検討されるべきことだろうが、少なくとも、表面的な姿勢がかなり変化したのは確かである。

初期のゲーム物語批判は、学位論文を含め、いくつかの論文に散発的に書かれているが、ひとまず「ゲームはストーリーを語るか」と題されたこの論文をまとめる。

この論文では、ゲームは物語ではないという主張を擁護するために、三つの論証が提示されている。以下三つをそれぞれ以下のように呼ぶ(名前はわたしがつけたものである)。同様の論証は、同時期にユールが書いた他の論文にも出てくる。

  1. ストーリー翻訳の問題
  2. 時間の問題
  3. プレイヤーの問題

はじめに断わっておくと、初期ユールの論証は、うまくいっているのかどうかかなり怪しい。というか、何をどこまで言えれば論証として成功なのかという問題設定があまりうまくいってないように見える。

おそらく、小説や映画のような典型的な物語メディアとゲームのあいだには違いがあるということは言えるだろう。だが、「ストーリーのあるゲームはダメだ」といった実質的・評価的な主張を擁護することはできていない。

言い換えれば、ユールの論証は、「ゲームではゲームプレイの要素が大事なので、典型的ストーリーメディアとは事情が異なる部分がある」ということしか言っていないように見える。しかしそんなことは当たり前ではないか?(当時はそうでもなかったのだろうか)

ストーリー翻訳の問題

ひとつめの問題は、小説の映画化のようなかたちで、小説や映画のストーリーをゲームメディアに翻訳することはできない(または困難である)という問題である。

物語論では、ストーリーとディスコースを区別することが多い。ストーリーは語られる内容であり、ディスコースはメディアと結びついた物語の語り方である。この区別が成り立つ根拠のひとつは、ストーリーがメディア間で移植可能であるという現象である。しかし、映画からゲームにストーリーを移植することは難しい。

スター・ウォーズ』のように映画からゲームに移植された例はもちろんある。しかし『スター・ウォーズ』のゲームは映画のプロットをなぞったものではなく、単に一部の場面をゲームにしているだけだ(ちなみにここではアタリのアーケードの『スター・ウォーズ』が例にあげられている)。

『モータル・コンバット』のようなゲームの映画化もあるが、ゲームと映画でストーリーが共有されているとは言いがたい。

一応論証っぽいかたちにすると

  1. Xが物語であれば、Xから/Xへストーリーを翻訳することができる
  2. ゲームから/ゲームへストーリーを翻訳することはできない
  3. よってゲームは物語ではない

時間の問題

ストーリーとディスコースの区別に関連するが、物語では、語りの時間(narrative time)と、語られる出来事の時間(story time)を区別する。多くの場合、ストーリーは、それが起きた後から語られる。

一方、ゲームプレイはつねに現在の出来事である。過去の出来事の回想(フラッシュバック)や、未来の出来事の先取り(フラッシュフォワード)は、ゲームプレイと同時には実現できない*1

インタラクティブ・ストーリーみたいなものはどう考えるかというと、あれは選択のタイミングのみゲームプレイが起きていて、それ以外の時間はカットシーンを見ているだけなので、その場合でもゲームプレイと物語は同時に生じていない。

これも論証っぽいかたちにすると、

  1. Xが物語であれば、語りの時間と、語られる出来事の時間の区別が生じる。
  2. ゲームはつねに現在であり、語りの時間と、語られる出来事の時間の区別は生じない。
  3. よってゲームは物語ではない。

この時間の問題はヘンリー・ジェンキンスに批判されたもので、ジェンキンスはこれに反論する形で、埋め込まれた物語の概念を提唱している。実際、ユール自身も『MYST』のような例(埋め込まれた物語の例)がうまくやっていることを認めてしまっているので、ジェンキンスの批判の方がもっともには思える。

プレイヤーの問題

みっつめの問題は、小説や映画のような典型的ストーリーメディアにおける作品と鑑賞者の関係と、ゲームにおける作品とプレイヤーの関係の違いに関する問題である。

典型的ストーリーメディアの場合、鑑賞者はキャラクターに同一化する。一方、ゲームにはキャラクターはいなくてもいい。『テトリス』のようにキャラクターがまったく登場しないゲームもある。

どうして『テトリス』のようなアブストラクトゲームに夢中になれるかというと、プレイヤー自身がいるからである。プレイヤーは自身のパフォーマンスを評価し、それによって感情を動かされる。

これは「ゲームは物語ではない」という結論を導く論証にはしづらい。一応それっぽく書いてみると

  1. Xが物語であれば、鑑賞者は、キャラクターへの同一化を通じて作品と関わる
  2. ゲームではキャラクターは必要ない
  3. よって、ゲームは物語である必要がない

感想

ストーリー翻訳の問題は、「映画のゲーム化のときに、映画のプロットそのままなぞろうしても、おもしろいゲームにはならないよ」という話として理解できるような気もする。時間の問題は、「回想シーンは、ゲームプレイになりづらいから、安易に入れたらいかん!(環境ストーリーテリングを使え!)」という話だったらわかる。プレイヤーの問題も、ゲームにおける作品とプレイヤーの関係は、映画の作品と鑑賞者の関係とは違うよというのは、まったく正しいだろう。

総じて、初期ユールの議論は、「ゲームと典型的ストーリーメディアはここが違う!」という話としてなら、飲み込める。だが、一方で、「ゲームはストーリーを語るか」とか「ゲームは物語ではない」という言い方を採用してしまってもいるのがミスリーディングだ。その後本人が言い方を改めているので、あまりつっこんでも仕方のない部分ではあるが。

*1:実際には、RPGなどで、回想シーンをゲームプレイするという例はあると思う(『FF7』とかでもあった気がする)。とはいえ回想シーンで敵に負けたらどうなるのかというの考えると、ちょっと変な感じがするのはわからないでもない