ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』

遅くなってしまったが、訳者の森さんから頂いた『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』の感想を書いておく。

【翻訳が出ました】ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - 昆虫亀

本書は、ドミニク・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグルという三人の気鋭の美学者による初学者向けの美学の本だ。美容の本みたいなタイトルだが、美容も含め、どうして楽器を弾いたりおしゃれをしたり花を愛でたりするのか——つまり、そもそもなぜ美的なものに関わるのか——についての本である。本書の言葉で言えば、どのように生きるべきかという「ソクラテスの問い」に関連して、美が良き人生にどう貢献するのかという問題を扱っている。

個々の章には個別にいろいろ言いたいことはあるのだが、あまり細かい話をするより背景を紹介した方がいいなと思ったので背景を紹介する。

背景: 美的理由の問題

(色、形、歴史的背景…)→美的判断に理由を与える→「この絵は美しい」→美的価値が理由を与える→「この絵を買う/観に行く/保存する/…」

手前味噌だが、上の図は、昔、美的理由について発表したときに使ったものだ。この図は整理のために、なかなか良いと思っている。

この図は、美的判断を中心において、左側が美的判断の理由(根拠と言ってもいい)、右側は美的判断で帰属される美的価値が他の行為の理由になるという構図になっている。

古典的な美学で議論されてきたのは図の左側にかたよっている。つまり、美的判断にはいかなる根拠があるのか、それはどこまで客観的なのか、といった問題ばかりが議論されてきた。

一方、本書の主題であり、近年「美的理由」「美的価値の規範的問題」というラベルで議論されてきたのは図の右側に関わる問題だ。つまり、わたしたちの多くは何かが美的価値をもつということを、その何かを見る理由、欲しがる理由、保存する理由……etc.などと見なしているようなのだが、それはなぜ?という問題だ。こ「なぜ?」というのは、その背景にある生物学的メカニズムなどを問うているわけではなく、それはなぜ正当なことなのかという規範的問題を問うている。

本書のタイトルにある「美を気にかける」は、わたしなりの言葉で言えば、〈何かが美的価値をもつことを、それを見たり欲がったりする正当な理由と見なす〉という態度に他ならない。それに対し、それはなぜ正当な理由なのか?と問うのが規範的問題だ。この問題の答えは、「なぜ人生の一部を美に向けるべきなのか」というソクラテスの問いにも結びつく。

本書でも触れられているように、この問題に対する古典的回答は、美的快楽主義と呼ばれる立場だ。美的快楽主義によれば、美的価値あるものは美的経験をもたらし、美的経験は快を与える。上の問いに対する美的快楽主義者の典型的な回答は次のようなものだ——「どうして美的価値を持つものを見に行くのか?」「そうすれば快がえられるから」。

一方、近年の議論の盛り上がりは、美的快楽説への批判からはじまっている。本書の多くの部分も、美的快楽主義への批判を含んでいる。

近年の議論の展開

美的快楽説と、その批判者の立場の違いを「受動から能動」「個人主義から集合主義へ」という二点にわけて説明しよう。

受動から能動へ

近年になって美的理由を巡る議論が盛り上がったのは、ロペスのBeing for Beautyという著作の出版がきっかけだ。『なぜ美を気にかけるのか』の三章は、このロペスの著作を元にした章だが、圧縮されすぎていて、よくわからない人の方が多いのではないかと思う。

そこで私なりにロペス説のポイントを紹介してみよう。わたしが考えるロペス説のポイントのひとつは能動性だ。美的快楽主義は、美的なものに関わる人々を、受動的に快楽を摂取する「受益者」「消費者」と見なす立場だ。一方、ロペス説では、行為者は、ゲームやスポーツのプレイヤーのような存在になる。制作者や、キュレーター、保存家といったプロフェッショナルはもちろん、わたしたち全員がプレイヤーとして評価される側なのだ。ゲームの比喩で言えば、わたしたちがプレイしているのは、〈美的価値に正しく反応するゲーム〉だ。プロのサッカー選手が素晴しいプレイを目指すのと同じように、私たちは鑑賞者として、制作者として、保存者、収集者、キュレーターとして、そのゲームにおける素晴しいプレイ(達成)を目指している。

これは、美的快楽主義と比較して、とても大きな変化だ。個人的にはとてもおもしろい理論だと思うが、発想がユニークすぎてわかりにくいかもしれない。

『なぜ美を気にかけるのか』の一章では、ロペスではなく、ナナイが美的経験の「達成」の側面を強調している。ナナイの立場は、快楽主義に近いが、達成という能動的側面を強調する点で、部分的にロペスの立場にも近づいていると言えるだろう。

個人主義から集合主義へ

美的快楽主義は、個人の快楽に訴えて説明する点で個人主義的な立場だ。一方、ナナイは美的経験の共有、リグルは共同体、ロペスは社会的側面を強調することで、そこから一歩離脱している。個人主義ではなく集合主義をとるという点で、三者のあいだに対立点はないようだ。

一方、美的快楽主義に人気がある背景のひとつは、その個人主義的側面にある気がするので、そこはもう少し議論があってもよかったかもしれないと思う。例えば、集合主義の弊害(他人と同調するばかりでまともに美的判断できなくなるとか)にももっともな部分があるので、そこに答えるような議論があるともっと良かったと思う。これは特にリグルのような、共同体の価値を強調する論者に答えてほしいと思う(リグルのほかの著作はあまり読んでいないので、どこかで答えてたらすいません)。