道徳的判断は程度を認めない0/1の判断なのか

人と話していて、道徳的判断って、基本的には程度を認めない0/1の判断ですよね……と言ったら意外と理解されなかったので、もしかしてこれってあまり理解されていないことなのか?と思って、ブログ記事を書くことにした*1。基本的に、倫理学に詳しい人なら知っているような教科書的な内容なので、目新しいことはない。ただ、このトピックについて知らない人が多いのであれば意義はあるのかもしれない。

0/1とは何か。まず「暑い」「寒い」「痛い」などは0/1の述語ではない。これらの述語は、比較形で用いることができ、程度を示す副詞と一緒に使うことが意味をなす単語だ。「少し暑い」「かなり暑い」「〔こちらの方が〕より暑い」などと言うことができる。一方「リンゴである」「知っている」「正円である」などは0/1の述語だ。これらの述語は比較形を持たないし、程度の副詞をつけても意味をなさない。あるものはリンゴであるか、リンゴでないかいずれかであり、「少しリンゴである」「かなりリンゴである」「よりリンゴである」などの表現は意味をなさない。言語哲学では、前者のような述語は「段階的gradable」、後者のような述語は「定言的categorical」と呼ばれることがある。この用語を使えば、私の主張は、「道徳的判断は基本的には定言的な判断である」と言い換えることができる。

ここで急いで付け加えなければならないが、わたしは「基本的には」というただし書きをつけている。これが意味しているのは「正確には、道徳的判断に含まれうるあらゆる判断が定言的であるわけではない」ということだ。主張をもっと正確に言い換えると以下のようになる。

  1. 狭義の道徳的判断は、right/wrongに関わる判断である。もっと言えば狭義の道徳的判断は「あれこれはrightである、あれこれはwrongである」という当為に関わる判断deontic judgementである。
  2. "right"/"wrong"は、定言的な述語である。

つまり、わたしは、狭義の道徳的判断以外の、広義の道徳的判断の中に、段階的な判断が含まれることは否定していない。例えば、バーナード・ウィリアムズが厚い概念と呼んだもの──立派である、卑怯である、勇敢であるなど──の多くは、段階的であるだろう。そして厚い概念を用いた道徳的判断というのは確かにあるし、それを否定するつもりも特にない。だが、それはここでいう広義の道徳的判断である。

1の敷衍と擁護

1の主張をもう少し敷衍しよう。ここには"right", "wrong"とやむをえず英語のまま書いた単語が含まれている。英語のまま書いたのは、これが訳しづらい単語だからだ。定訳は「正」「不正」であるが、「正」「不正」と訳しても、いずれにしてもわかりにくいのでもう少し説明しよう。

わたしの日本語感覚だと、英語の"wrong"にもっともニュアンスが近いのは、日本語で謝罪するときなどに「間違ったことをしました」と言う場合の「間違ったこと」だ。反対に"right"にもっとも近いのは、「きみは正しいことをしたんだ」と言う場合の「正しいこと」だ。かといって「正しい」「間違っている」と訳すと、日本語の「正しい」「間違い」には、「正解」「不正解」という別の意味があるので、それはそれで混乱をまねくことになってしまう。「道徳的」をつけることにして、「道徳的正しさ」「道徳的あやまち」くらいが誤解の可能性が少ないと思うので、以下はそれで統一する。「道徳的正しさ」「道徳的あやまち」の定義じみたことを中立的に述べるのは難しいので例示だけしておこう。一般に「正しいこと」に含まれるのは人助け、正直に言うこと、人を公正に扱うことなどだろう。反対に「あやまち」に含まれるのは泥棒、嘘、差別などである。

わたし自身は1と2は基本的にあまり疑問の余地のない事実ではないかと思っている。特に1に関しては、もちろん、道徳には広大な領野があるが、少なくとも20世紀以降の倫理学は基本的に道徳的正しさ/道徳的あやまちを中心に議論してきたはずだという程度にマイルドな表現に変えればただの事実だろう(わたしが言いたいことはその程度である)。

例えば、倫理学の教科書を開くと、基本的には功利主義(ないし帰結主義)対義務論という構図で話が進められることが多い。そしてその構図で争われていたのは、どちらの理論が道徳的正しさ/道徳的過ちという事象をうまく捉えられるかという問題であったはずだ。

ここで権威に頼るが、スタンフォード哲学事典の「帰結主義」に関するエントリの冒頭では、帰結主義にはさまざまなバリエーションがあるものの、代表的なのは「行為の道徳的正しさに関する帰結主義である」と述べられている(強調引用者)。

一応義務論の方にも触れる。義務論の方がまとまりがなくて扱いづらいが、義務論者の多くは、道徳的規範に従うことは道徳的に正しく、規範に反することは道徳的にあやまっていると捉える。やはりスタンフォード哲学事典の「義務論的倫理」のエントリから引く。「このような〔代表的〕義務論者にとって、ある選択を正しくするものは、それが道徳的規範に従っていることである」(強調引用者)。ここでも義務論が基本的に「正しさ」に関わる理論であることはほぼ前提されている。

2の敷衍と擁護

2については、英語の"right"/"wrong"が定言的な述語であること、さらに"right"/"wrong"の分析も、基本的に両者を定言的なものとして扱っていることを指摘すれば十分だろう。前者について。英語の"right"/"wrong"には厳密に言えば比較形があるらしいが、ほぼ使われないし、これが使われているのを見たことがある人もほとんどいないはずだ*2。辞書を見てほしい。

後者について。帰結主義も義務論も、基本的にright/wrongに度合いを認めていない。代表的な帰結主義として知られる最大化説を例にあげよう。行為の道徳的正しさに関する最大化型帰結主義は、「行為aが道徳的に正しい = 行為aは最善の帰結をもたらす」と捉える立場である。そしてある行為が最善の帰結をもたらすかどうかは0/1であり、そこに程度の概念は適用できない。帰結主義は度合いを許すのではないか?という誤解はたまに見られるものであるようだが、基本的に古典的な帰結主義は度合いを認めていない。帰結主義が度合いを認めるというのは、善goodが段階的概念であることから来る誤解である。最善bestは段階的概念ではない。帰結主義は正を善に還元する立場ではあるが、その還元の仕方は程度の幅を認めるようなものではないのである。

ただし、帰結主義の特殊なバリエーションのひとつとして、正しさやあやまちに度合いを許す帰結主義を提唱している人はいるらしい。Neil SinhababuのScalar consequentialism the right wayはまさにそのような提案をしている論文だ(ちゃんと読んだわけではない)。ただし、これはかなり特殊な立場であり、シンハバブ自身も英語の用法から外れることは認めている。

義務論が度合いを許すという誤解をしている人はほぼ存在しないと思うが、一応説明しよう。多くの義務論者にとって、ある行為が正しいということは、それが道徳的規範に従うということである。ある行為が道徳的規範に従うかどうかは──少なくともごく普通のルールのようなものを考えれば──0/1である。さらに言えば、多くの義務論者は、道徳的正しさは義務を含意し、道徳的あやまちは禁止を含意すると考える。義務や禁止はもちろん0/1の概念である。ちょっと禁止、かなり禁止などは存在しない*3

もう一声説明

以上で説明すべきことはだいたい説明したのだが、これだけだと多分まだ「正しさ/あやまち」がどういう概念であるのかピンとこない人が多いかもしれない。なので、ちょっとだけ論争的なポイントにも踏み込んで、もう少し積極的な規定を述べる。「正しさ/あやまち」というのは、価値評価ではなく、当為(すべきである/すべきでない)に関わる概念なのである。「その行為は正しい」というのは「その行為はすべきことですよ」という含意をもち、「その行為はあやまっている」ということは「その行為はすべきでないことですよ」という含意をもつ。専門用語では、これは「評価的evaluativeではなく、義務的deonticである」と表現されたりする。もっと直観的な言い方をすると、当為に関する判断というのは、何らかのパラメーターが上がったとか下がったとかという評価的な話ではなく、パラメーターの決定が終ったあとの話をしていて、そこからどうやって「すべきこと/すべきでないこと」を決定するかについて述べているのである(最大化説はこの一番わかりやすい例だろう)。おそらく誤解している人は、グッド/バッドと正しい/あやまちを混同していて、正しい/あやまちも評価的概念だと考えてしまっているのではないかと思う。

もっとざっくり書くと、どうも「道徳的価値」というパラメーターがあって、倫理学は、そのパラメーターの上下について話しているというイメージをもっている人がそれなりにいるようなのだ。つまり、美学が美的価値について語る分野であるように、倫理学は道徳的価値について語る分野である、と。しかし、そのイメージはちょっとおかしい*4倫理学の大半はむしろ価値の裁定が終わったあとの話をしているのである。

また、これは自戒を含めて書くのだが、特に倫理学を専門としていない哲学者などがふわっと「道徳的価値」のような言葉を使うことがあり、それが正確に何を意味しているのかわからないということがあると思う。ちなみに美学ではよく出てくる。一応わたし自身はそういう表現を使う場合は、前述のウィリアムズの厚い概念や、moral worth などを念頭に置いているが、正直何を意図してこの表現を使っているのかよくわからない事例はかなりあると思う。

また誤解する理由はわかるような気がしていて、おそらく日本語では、グッド/バッドと正しさ/あやまちの区別が曖昧であることにひとつの原因があるのではないか、と思う(これはright/wrong訳しづらい問題とも関係する)。例えば日本語で「悪いこと」と言った場合、それがバッドなことなのか、あやまちなのかはよくわからない。「やってはいけないこと」というニュアンスであればあやまちだろうが、「あの人に悪いことをした」という用法の場合はバッドの方だろう。「善悪」という用語も正邪みたいな意味で使われることもあるし。

*1:ちなみに、特定の誰かひとりを念頭に置いているわけではなく、何度かそういうことがあった。

*2:ちなみにrightの比較形はmore rightであり、wrongの比較形はwrongerらしい。知らなかった。

*3:一方、帰結主義者は義務と禁止についてどのような立場を取るのか。これはちょっと一口では説明できないが、先述のスタンフォード哲学事典の6節を読んでもらえば雰囲気はわかると思う。

*4:「そういうことやっている」という話なら問題はないと思うけれど。