R. Jay Wallace『モラル・ネクサス』

Wallace, R. Jay (2019). The Moral Nexus. Princeton University Press.

R・ジェイ・ウォレスの『モラル・ネクサス』という本を読書会で読みはじめた。タイトルは『道徳的紐帯』『道徳的結びつき』とでも訳すべきだろうか。

たまにはブログを書こうと思ったのと、本書は、日本でほとんど知名度がないが、もっと知られてもいいなと思ったので紹介する(まだ二章の途中くらいまでしか読んでいない)。

本書は道徳に関する関係的アプローチと呼ばれる理論を提唱・擁護・ブラッシュアップする本だ。

道徳に関する関係的アプローチというのは耳慣れない言葉かもしれないが、P・F・ストローソンが「自由と怒り」で提示した反応的態度説が最も近い。近いというか、ストローソンは関係的アプローチの一種に含まれるだろう。他に似た立場をとる論者としてはT・M・スキャンロン、スティーヴン・ダーウォルなどがいる(ダーウォルに関しては微妙に立場が違うらしく、ウォレスはダーウォルを批判しているが)。

関係的アプローチの基本的発想は「道徳は人と人との結びつきに基づく」という(当たり前の)洞察だ。もう少し具体化しよう。例えば、私があなたと約束し、自分の都合で約束を破ってしまったとしよう。このとき、私はあなたに対して〈負い目〉があり、あなたには私に〈要求する権利〉がある。

図にすると以下のような感じだ。ウォレスによれば、典型的に道徳を支えるのはこのような〈負い目がある〉型状況に見られるタイプの関係である。

人A  ----請求権claim -------> 人B
人A  <---義務obligation---- 人B

道徳と義務

二章では、従来のアプローチが道徳における義務・禁止の側面をうまく扱えていないという問題が提起される。多くの場合、私たちにとって道徳は「やってはならないこと」「しなければならないこと」に関する命令──つまり義務や禁止──として感じられる。

にもかかわらず、従来のアプローチはこの側面を扱えていない。例えば、功利主義では、道徳的不正は単なる〈最善でない選択肢〉と同一視される。しかし〈最善でない選択肢〉は、「やらない方がいいこと」ではあっても「やってはならないこと」には当たらないだろう。つまり、功利主義の立場では、なぜ道徳が「やってはならない」という強い命令として理解されるのかが、謎になってしまう。

こうした問題は、宗教道徳には存在しない。例えば、キリスト教道徳では、道徳は神の命令として理解され、道徳的規則に反することは、神の命令に背くことである。このアプローチでは、道徳的不正を「やってはならないこと」として自然に理解できる。

問題は、神の存在を前提しない世俗の道徳理論によって、いかにしてこの〈道徳の中の義務の側面〉を理解するか、である。これはアンスコムが「現代道徳哲学」という古典的論文で提起した問題だ。

ウォレスの提案はもちろん「そこで関係的アプローチですよ」というものだ。

ここまでしか読んでいないので、このざっくりした紹介もここで終わる。

感想

私自身は、道徳に関してはT・M・スキャンロンやウォレスの立場に魅力を感じている。何がいいのかというと、これらの立場は、道徳というものが本来的に、前近代的でドロドロした危険で危いものであることをうまく捉えているからだ。もちろん、スキャンロンもウォレスも表面上は、道徳は悪いものだとは言っておらず、きちんと理性に基づいて道徳を使うことが大事だと主張していると思う。

とはいえ、スキャンロンやウォレスが理解する道徳は、時に共同体からの排除(村八分)などを伴う危なっかしいものだ。そして私の理解では、道徳というのはまさにそのような性格をもったものなので、その危険を踏まえた上で運用した方が良いのである。