前回エントリ
道徳的判断は程度を認めない0/1の判断なのか - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
Xで宣伝するのを止めてしまったら、いまひとつ反応がなくてつまらんなと思ったけど、なぜか逆説的にブログを書く気がわいてきた。
前回の記事は、「倫理学ではこういう問題が扱われてきたよね」という話しかしていないのだが、はてブで謎の反応がいくつかあってうけた。タイトルが扇情的でよくなかったかもしれない(なので、非専門家は誰も興味を持たなさそうな「当為」をタイトルに据えてみた)。それはどうでもいいのだが、いずれにしても補足した方がよかったのは、「道徳に関して、ことの軽重・大小をいっさい区別できない」という主張はしていないということだ。「right/wrongは定言的述語である」という主張から、そんな結論は出てこないと思うのだが、明示的にそう言った方がより良かった。
まず一般論として「リンゴ」が定言的概念だとしても、大きなリンゴと小さなリンゴの区別ができなくなるわけではない。right/wrongに関しても、重大なあやまちと小さなあやまちの区別はできるだろう。しかしを大きなリンゴを「よりリンゴであるappler?」と呼んだり、重大なあやまちを「よりあやまちであるwronger」と呼ぶのは文法的におかしい。それだけの話だ。重大なあやまちと軽微なあやまちを区別したければ、単に「重大/軽微」のような別の概念を導入すればいい。ひとつの概念に何でもつめこむことはない*1。
じゃあポイントはどこにあるのかというと、後半に書いた価値と当為の区別にある。価値評価をする概念と、当為に関する概念は役割が違うよというのが話のポイントだ。
当為とは何だったか。直接的には「すべき/すべきでない」のことを指す。前回は以下のように書いた。
もっと直観的な言い方をすると、当為に関する判断というのは、何らかのパラメーターが上がったとか下がったとかという評価的な話ではなく、パラメーターの決定が終ったあとの話をしていて、そこからどうやって「すべきこと/すべきでないこと」を決定するかについて述べているのである
個人的にはこの辺の話にかなり関心がある。関連する論文を紹介すると、セリム・バーカーという人が、当為に関して倫理学の領域と認識論の領域を比較する論文を書いている。
Selim Berker, Epistemic Teleology and the Separateness of Propositions - PhilPapers
バーカーによれば、認識論においても、倫理学における帰結主義に相当する立場を考えることができる。これもいろんなバリエーションがあるが、ざっくり飛ばして紹介すると、例えば「真である確率を最大化するような信念を形成すべきである」という立場は、認識論における最大化説の対応物になる。これは行為ではなく、信念に関する当為の理論だ。だが、倫理学はともかく、認識論における最大化説(あるいは最大化説を含む「目的論的」立場全般)はおかしいというのがバーカーの主張だ。
ちなみに、これに関係する論文を以前書いたことがある。この論文のモチベーションのひとつは、倫理学・認識論・美学を横断して比較することだ。この三分野すべてについてある程度詳しい人もあまりいなさそうなので、そういう話はやる意義があるかなと。ただしこの論文では当為の話はほとんどできていない。
<研究論文(原著論文)>スキャンロンの価値の反目的論 | CiNii Research
なお、倫理学、認識論とは違って、美学では当為の問題はあまり議論されてこなかった。しかし近年の美的理由に関する議論は、当為にも関わるものであることは明らかなので、この辺の概念的区分に関心をもっている。そういったわけで、これはひとつ前の記事にも関係する話ではある。
ロペス、ナナイ、リグル『なぜ美を気にかけるのか:感性的生活からの哲学入門』 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
宣言することで自己を拘束する効果を狙って言うが、倫理学・認識論・美学を横断する「理由の哲学入門」みたいなものをそのうち書きたい気持ちがなくもない。
*1:一方で、日本語にはright/wrongに近い語がないので日本語話者にとって、この概念は理解しづらいのではないか、という推測は私の中でより強まることになった。