James Shelley「美学における価値経験主義への反論」

Shelley, James (2010). Against Value Empiricism in Aesthetics. Australasian Journal of Philosophy 88 (4):707-720.

美的理由について勉強するシリーズ。これはどちらかと言えば、美的価値についての論文だが。

その1 その2

著者は、以下のような、美的価値の経験説に反対している。

美的価値の経験説: ものが美的価値をもつのは、それがもたらす経験の価値のためである。

この説の支持者によれば、なぜ美しいものに価値があるのかと言えば、美しいものは快をもたらすからだということになる。この説にはとても人気があるが、著者はこれに反対する。

分離可能な価値の異端説: 美的価値の経験説が芸術作品の美的価値に当てはまるとしよう。この場合、作品の美的価値は経験の価値に由来する。そうすると、ある作品と同じ経験をもたらすものは何であれ、この作品と同じ価値をもつことになる。しかし、芸術作品の価値は、このような仕方で分離可能なものではない。

つまり、経験説によれば、芸術作品の価値は、「快をもたらす薬」などと同じような道具的価値しかもたないことになってしまうのではないかという反論だ。

よくある再反論: 上記の反論は、作品がもたらす快を、作品それ自体から切り離せるように考えているので間違っている。作品がもたらす快の価値は、作品それ自体から切り離せないのだ。

作品から得られる快は、単なる身体的快楽のようなものではなく、その作品自体を経験の表象内容に含むような複雑な経験なのだ。だから、それによって芸術作品の価値が道具的価値になることはないのだという反論だ。

しかし、著者によれば、この再反論はうまくいっていない。経験説の支持者は、対象の美的価値を経験の価値によって説明したはずなのだから、経験の価値を説明する際に再び作品を参照してはならない。もし以下のように答えるとすれば、循環になってしまう。

  • Q「作品の美はなぜ価値をもつのか?」A「価値ある経験をもたらすからだ」
  • Q「その経験はなぜ価値をもつのか?」A「価値ある作品の経験だからだ」

もし循環を避けようとすれば、経験の価値は、何らかの現象的性質に由来すると答えなければならない。そうだとすると、結局、最初の批判に答えられないだろう。