Klevjer, R. 2002. “In Defense of Cutscenes.” Computer Games and Digital Cultures Conference Proceedings. Tampere University Press.
ゲームの物語について勉強する4。
カットシーン(ゲーム中で流れるプレイ不可能なムービー)に関してよく引かれる論文。
- その1 - Henry Jenkins, 物語アーキテクチャとしてのゲームデザイン - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
- その2 - Jesper Juul「ゲームはストーリーを語るか」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
- その3 - Susana Tasca「コンピューターゲームにおけるクエストの問題」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
なお、以下のブログでも同じ論文が紹介されていた。
「In Defense of Cutscenes」 メモ - フィクションを哲学する
タイトルでは「カットシーン」が強調されているが、カットシーンの話題だけではなく、ゲームにおけるストーリー要素全般を擁護している箇所が多い。
前半では、ゲームにおけるゲームプレイの要素の重要性を強調し、ゲームを物語に還元することを戒めつつ、だからといってゲームにおけるストーリーの役割を全否定するのはおかしいだろうと論じている。著者はいわゆるルドロジスト(ゲームプレイを重視する立場)に共感的な立場のようだが、その上でストーリー要素を擁護する。
コンピューターゲームが「ゲーム」である以上、物語だけに注目して、ゲームプレイの要素をおろそかにしてはならない。しかし、文化的産物としてのコンピューターゲームは、多くの場合、物語とゲームの混合である。にもかかわらず、物語の要素を「不純」「未熟」なものとして切り捨てるのはよろしくない。
著者としてはむしろ物語という「異質な」要素が、いかにゲーム体験の一部として機能しうるかに関心をもっている。著者がもっぱら扱っているのはストーリーベースのアクションゲームというジャンルだ。とりわけ『グランド・セフト・オートIII』(GTA III)の例が扱われている。
その上で、著者はまず、カットシーンには、ゲームプレイに対する機能があるという点を確認している。多くのゲームでは、カットシーンは、これから先のゲームプレイを予告し、情報やヒントを与えるという機能をもっている。また、カットシーンによって緊張感を高め、そのままゲームプレイに突入するという機能をもつ場合もある(著者は「ゲームプレイ・カタパルト」と呼んでいる)。さらに、ゲームプレイ後のカットシーンには、ゲームプレイに対する「報酬」の一部という意味もある。
また、論文の中盤から後半では、ゲームプレイ上の出来事は、〈表象的出来事〉であるという話をしている。表象的出来事という用語はわかりにくいが、要するに、プレイヤーは物語世界の中で、一定の役を演じるということもやっており、プレイヤーの行為には、フィクション的な意味(ないし物語上の意味)もある。
例えば、『GTA III』で敵ギャングを倒すとき、その行為は物語内では、ギャング同士の殺し合いという意味をもっている。それによって、ゲームプレイは、ポピュラーカルチャーの既存のジャンル(ここではギャングもの)と接続できる。要するに、ギャングものの世界で、ギャングになりきれるのが楽しいという側面がある。この側面を実現するために、カットシーンは重要な役割を果たしている。
感想
読む前は、「カットシーンってアクションゲームだと評判悪いけど、『Life is Strange』みたいなアドベンチャーゲームだとどうだろう。この種のゲームでカットシーンをなくすのは不可能ではないだろうか」というようなことを思っていたのだが、特にそういう論点は論じられていなかった。
あと、よくもわるくもカットシーンが注目されるようになったのは、3Dゲームの時代になってからという印象がある。メーカー側が「シネマティック」とか「美麗グラフィック」を売りにするようになり、その結果長いカットシーンが登場して、場合によってはそれが嫌われるという流れがありそう。同じ著者が、The Routledge Companion to Video Game Studiesの「カットシーン」の項目を書いているので、そちらを見ると、もう少し細かい論点も論じられてそうだ。