日本科学哲学会第45回大会での発表について宣伝します。
11/15(土) 午前の部です。
会場は南山大学名古屋キャンパスとなります。詳しくは、科学哲学会の公式サイトを
以下内容の紹介。
近年分析美学の世界では物語の哲学が盛り上がっている。2009年にはトップジャーナルであるThe Journal of Aesthetics and Art Criticismで特集が組まれ、その後もグレゴリー・カリーやピーター・ラマルクといったビッグネームが物語の哲学に関する単著を次々と出版している。こちらは主に小説や映画のような物語表象に対する新しいアプローチとして出てきている感じだ。
一方で、以前から倫理学や形而上学における「物語論アプローチ」というのもある。こちらの人たちは主として現実世界の中に物語の事例を見出そうとしてきた。物語としての人生とか物語的自己とかいったキーワードで知られている。マッキンタイア、シェクトマン、ディヴィド・ベルマンなど。
ただ、前者の美学的物語論者の多くは後者に対して非常に冷淡な態度をとっている。人生が物語であるというのは比喩以上のものではないし、むしろ有害で誤解を招くメタファーだと。
一方本発表は両者の間をつなぐものになる。美学的物語論に内在的な観点から、「現実世界の物語というアイデアはそんなに簡単に切って捨てられないぞ」という話をする。
この発表では「ストーリーの移植」という馴染み深いが、それほど注目されていない現象を取り上げる。小説の映画化やマンガのアニメ化など、異なるメディア間でストーリーが移植されることがある。
この時、私たちは移植の対象となる「ストーリー」なるものを認めているはずだが、ではストーリーとは何だろうか。ここで私はストーリーは出来事であるという立場を擁護する。
この帰結は小さくない。私の立場は、世界の中にストーリーという種類の出来事があることを要求する。ストーリーは物語に先立って、物語から独立に存在する。
この立場では、物語とストーリーの優先順位は逆転する。物語という種がストーリーという種を説明するのではなく、ストーリーという種が物語という種を説明する。
現在主流となっている(そして美学者の多くが受け入れている)物語の定義も、実はこの立場と相性がいいものだという議論もする予定だ。
追記
書き忘れていたけれど、この発表は以下でSmutsが提示したストーリーの同一性のジレンマに解決を与えようというものでもあります。
Aaron Smuts「ストーリーの同一性とストーリーのタイプ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ