フィクションの哲学のニューウェイブ: エイベルの『Fiction: A Philosophical Analysis』

まえおき: フィクションの哲学の現状

最近出版されたキャサリン・エイベルのFiction: A Philosophical Analysisという著作を紹介したいのだが、最初に「フィクションの哲学」と呼ばれる分野の現状について簡単に紹介しておく。

わたしがやっている分析哲学系のフィクションの哲学という分野は、大まかには形而上学言語哲学系統のものと、美学系統のものに分けられる。

美学系統のフィクションの哲学は九十年代に確立された。もう少し詳しく言うと、九十年代初頭に出た三冊の本、すなわちケンダル・ウォルトンMimesis as Makel-Believe、グレゴリー・カリーのThe Nature of Fiction、ラマルク&オルセンTruth, Fiction, and Literatureの三冊がこの分野を規定している。

詳しく入りこむつもりはないが、この三冊は大まかには同じフィクション観を提示している──ひとことでまとめれば、作品の受け手が採用する態度、想像(ないしメイクビリーブ)によってフィクションを規定する立場だ──大まかには、受け手が、事実としてではなく架空の出来事として受け止める態度を取るよう求められるものがフィクションだよということになる*1。この立場は、デレク・マトラヴァーズによって「コンセンサスビュー」と呼ばれている*2。この三冊の出版以降、(美学系統の)フィクションの哲学は、このコンセンサスビューを中心として展開された。「中心」というのは別に全員が賛同しているというわけではなく、そのブラッシュアップや応用や批判やオルタナティブの提示が行なわれたということだ。

ただし、それも九十年代にはある程度落ちついてしまい、今から振り返ると2000年代や2010年代にはそもそもフィクションの哲学の出版がほとんど無かったように思われる*3

(改めて振り返ると2000年代の英語圏の著作はフィクションじゃなくてナラティブをタイトルに冠した著作が多いのでナラティブが流行っていたのかもしれない)

一方「あ、何か潮目が変わったな」と思ったのは、二年ほど前に、キャサリン・ストックのOnly Imagineが出版された時だ。ストックは立場的には完全にコンセンサスビューの支持者なのだが、この著作は何か新しかった。フィクションの哲学の伝統的なトピックを、作品解釈における意図説・反意図説の話題と結びつける整理も目新しかったし、昔の人が延々と論じていたが、どうでもいいとしか思えないような問題が、一段落であっさり済まされていたりして、ニューウェイブ感があった。ストックは、昔からある立場を組み合わせているので新しさはわかりにくいのだが、やっぱり昔の著作と比べて読むと、ものすごくきれいに整理された感じはある。

ふたりのキャサリン

で、ここからが本題なのだが、キャサリン・エイベルという美学者のFiction: A Philosophical Analysisという著作が出版された。出たのは十月だが、年末年始にようやく読みはじめ、二章まで読んだところで、重要な著作だと思ったのでブログで紹介することにした。

エイベルは、描写の哲学や芸術の定義論などですでにいくつも重要な論文を残している気鋭の美学者だ。フィクションの哲学をやっているイメージは無かったが、 はじめての単著がフィクションの哲学に関するモノグラフになるということで期待していたが、やはりおもしろい。

適当にそれっぽく断言しておくと、少なくともここ十年くらい?の間、フィクションの哲学という分野は、ふたりの「キャサリン」、つまりKathleen StockのOnly Imagineと、Catharine AbellのFiction: A Philosophical Analysisの二冊を中心に展開するだろう*4

コンセンサスビューを確立した三者(四者?)の著作がそれぞれ少しずつ似ているように、ふたりのキャサリンの著作もどこか似ている。ひとつわかりやすい共通点は、両者とも、作品解釈の問題をひとつの中心的トピックに据えていることだ。これはストックの著作が出たときに「今までありそうでなかった整理だな」と思ったのだが*5、エイベルもこの整理に乗ってきたので、しばらくこの傾向はつづきそうだ。ただしふたりの結論は逆で、ストックが極端な意図説(作者の意図を重視する立場)であるのに対し、エイベルは慣習や制度を重視する立場だ。

また、ストックの立場が、細かいアップデートはありつつ、基本的にはコンセンサスビューであるのに対し、エイベルは、コンセンサスビューに似ているが、厳密に言えば違う別の立場を打ち出している。この辺りの違いも興味深い。

だが、両者の最も大きな違いであり、エイベルの著作の特徴にもなっているのは、制度論を全面的に導入したことだ。これまでフィクションの哲学ではあまり見ることがなかった社会存在論の道具立てが使われており──例えばゲーム理論マトリックスが出てきたりして──、新鮮な印象を受ける*6

フィクションの制度

エイベルの本は、日本でも邦訳が出たフランチェスコ・グァラの制度論を全面的に参照したものだ。これは別に「制度というのは一種のフィクションで…」といった話ではなく、ここで「フィクションの制度」と呼ばれているのは、文学の制度とか映画の制度のことだ。

以下この制度論を使ったエイベルのフィクションの定義を、ざっくりと紹介しよう(エイベルのフィクションの定義はかなり難しいし、以下の話はかなり省略しているので、わたしの解説をあまり真に受けず、気になったら直接読んでみてほしい)。なお、エイベルのフィクションの定義論は、実はエイベルの芸術の定義論とほとんど同じ枠組なので、先にそっちを知っていると理解しやすいかもしれない。

エイベルのフィクションの定義は二段構えで、(1)先に「フィクションの制度」というものを定義し、(2)フィクションの制度によって生み出される作品を「フィクション作品」と見なすという構成になっている。

これを逆側から言えば、あるものがフィクション作品かどうかを知りたければ、まずその作品を生み出している制度がどういうものなのかを特定し、次に、その制度がフィクションの制度になっているかどうかを調べればいいという話になる。

ただし、ここが難しいところだが、エイベルの立場によれば、「フィクションの制度」という単一の制度が存在するわけではない。むしろフィクションの制度は無数に存在する。

例がないと説明しづらいので、まずいろいろな制度の例をあげてみよう。

  1. ハリウッド映画の制度
  2. 現代落語の制度
  3. 近代文学の制度
  4. 報道動画の制度
  5. Youtuberの制度
  6. 近代行政制度

これらはどれも、何かしらの規範やルールを共有しているという意味で「制度」と呼ぶことができるようなものだが、これらの制度すべてがフィクションの制度になっているわけではない。おそらく1、2、3はフィクションの制度だが、4、5、6はちがう。

では何が両者をわけているのか。エイベルの立場によれば、制度を規定するのは機能──それがどんな問題を解決しているか──だ*7。一方、問題には複数の解決が存在しうる。1、2、3などの制度は〈ひとつの共通の問題に対する別解たち〉と見なすことができるという点において、共通性をもっている。

では、フィクションの制度が共通して解決している問題とは何か──想像の伝達だ。単に事実を人に共有するのと違い、架空の事柄についての想像を人と共有することは特有の難しさをもっている。エイベルがフィクションの制度と呼ぶのは、この想像伝達の困難を解決するルールや装置をもった制度のことだ。

ざっくりとしたアイデアは以上。細かくは本を読んでほしい。

*1:ただし、個別に詳しく見ると三者の違いは大きい。特に厄介なのはウォルトンで、コンセンサスビューの支持者としてもっとも有名なのがウォルトンであるにもかかわらず、実はウォルトンはコンセンサスビューの支持者ではなく、ウォルトンにコンセンサスビューを帰属するのは単なる誤読であるとも言われる。言われるというか、わたしもその解釈が正しいと思う。が、その話は詳しく入り込むとめんどうなので置いておこう。少なくとも「誤読バージョンのウォルトン」には影響力があるので、誤読だからと言って簡単には無視もできない状況にあるということだ。

*2:Fiction and Narrative。念のために付け加えておくとマトラヴァーズは名前をつけただけで、本人はコンセンサスビューを批判している。

*3:例外はフィクションの認知的価値の分野で、この分野だけは盛り上がっている。それ以外もぽつぽつと出版はあるが、以前ほど盛り上がっている感じはない。

*4:Stockの方は"Kathleen"というスペルなので、カタカナ表記が本当に「キャサリン」でいいのかわからないが。

*5:詳しくは前に書いた紹介記事を参照。

*6:ただ、近年は美学においても社会科学的なトピックや社会存在論を導入するのが流行している印象があり、少し前に出たロペスのBeing for Beautyという著作でも似たような道具立て(ゲーム理論など)は登場していた。なおロペスの本は美学の本ではあるがフィクションは扱っていない。あと、どちらの著作でもゲーム理論は、そんな本格的に使われているわけではないが。

*7:ここは本当はグァラの枠組に沿ってゲーム理論を使う箇所で、ここでいう「問題の解決」は正確には「コーディネーション問題に対する均衡解」。