少し前に戸田山さんの新刊『恐怖の哲学』が出た。個人的にはとても楽しく読んだ。未読の人のために、一応簡単な紹介を書くと、1部は感情の哲学、2部はホラーの哲学、3部は意識という構成になっている。1部は心の哲学者プリンツのGut Reactions、2部は美学者ノエル・キャロルのThe Philosophy of Horrorが主な参照文献になっている。フィクションのパラドックスなど、美学的な話題の部分では目新しい指摘と思うものはなかったが、ホラー映画に関する批評的な読解などもかなりおもしろく、「戸田山さんはこういう文章も書けるのか」という新鮮な驚きがあった。
私の関心は美学なのでここでは主に2部の話を書く。ウォルトンおよびフィクションのパラドックスについて書いた場所は、いくつかまちがいがあったので訂正を書いておきたい。最初に断わっておくと、どれも致命的なまちがいではまったくない。記述は概ね正確である。単に、この本はよく読まれるだろうから訂正を書いておきたい趣旨である。ただし、解釈にはある程度踏み込んでいるので、異論もあるとは思う。
ウォルトンはホラー映画の実例として、もっぱら『ザ・グリーン・スライム』(The Gleen Slime)に言及している(これは『ガンマ3号宇宙大作戦』というタイトルで日本でも公開されたようだが、残念ながら観ていない。観たいかというと微妙)。p.286
→ちがう。ウォルトンはたしかに緑色のスライムが出てくる映画を例にあげるのだが、特に具体的な映画が念頭にあったわけではないらしい。確かに深作欣二の映画は公開タイミングなども合うのだが、その映画は念頭においてないということは「フィクションを怖がる」の訳者の森さんがウォルトンに問い合わせて確認されている(『分析美学基本論文集』p.332)。これは訳注に書いてあるのだが、読んでいないのかな。
あと「準恐怖quasi-fear」という用語の使い方がおかしい。
観客が、ホンマもんの恐怖ではなく、恐怖のふりをしていると言われるのは、その怖さの反応と感じが、自分は殺人鬼に襲われているという信念ではなく、自分はごっこ上殺人鬼に襲われているという信念に由来するからである。後者の恐怖をウォルトンは「準恐怖」と呼んだわけだ。pp. 266-267
→ちがう。ウォルトンは、ごっこ上の恐怖は、ごっこ上の恐怖としか呼んでない(ごっこ上の恐怖は本物の恐怖でないとは言っている)。準恐怖は、虚構的恐怖と本物の恐怖に共通する生理学的/心理的状態を指す言葉として使われている(邦訳p.303を見られたい*1 )。記憶と疑似記憶を合わせて準記憶と呼ぶことがあるが、そういうのと似た用法だと思う。ただ、これは英語圏でも普通によく見られる誤解ではある。
また、著者は、メイクビリーブ理論を、フィクションは一種のごっこ遊びであるという説だと捉えているように思われる。これも解釈としては、よくあるものだが、あまりよくない捉え方であると思う。
私の理解では、ウォルトンのメイクビリーブ理論とは以下のようなものだ。
- 想像と虚構性という二つの基礎概念によってメイクビリーブゲーム(何かを虚構的にするゲーム)を特徴づける。
- この2つは基礎概念なので定義できず、例示によってのみ説明されている。ごっこ遊びは単に例示のためにあげられている。
- Mimesis as Make-Believeの段階では、虚構性を想像によって定義しようとしていたが、後にあきらめた。
- フィクションは、メイクビリーブゲームを生み出す機能をもったものとして特徴づけられている。
この際、「メイクビリーブゲーム」や「フィクション」はウォルトン用語として独自の定義が与えられているものなので、日常語の「ごっこ遊び」や「フィクション」とはわけて考えなければならない(揶揄をこめて、ウォルトフィクションなどと呼ばれることもある)。これは戸田山さんとも近いのではないかと思うのだが、ウォルトンは、自分は概念分析ではなく、理論構築をしていると明言している。
ちなみにウォルトン解釈で、私がもっとも好きなのは、David VellemanのOn the aim of beliefだ。これ自体有名な論文だが、これを読めばウォルトンのイメージが大きく変わると思う。いい意味でも悪い意味でもウォルトンがめちゃくちゃ変なことを考えていることがよくわかるというか。
Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts