ウォルトンは感情の認知説をとっているのか?

フィクションのパラドックスとか、フィクション感情のパラドックスと呼ばれるパラドックスについて。
以下、チャールズはスライムにおそわれるホラー映画を見て、ぶるぶる震えているとしてほしい。

通常、このパラドックスはチャールズについて以下の3条件が成り立つように思われるが、両立しないというものだとされる。さらにウォルトンは2を認めており、感情についての認知説を取っているとされる。
ところが、実はウォルトンは『ごっこ遊びとしてのミメーシス』を書いた時点で、認知説的前提は取り下げているので、2をウォルトンに帰するのはまちがいである。

  • 1. チャールズはスライムを怖がる。
  • 2. xを怖がるためには、xが存在すると信じなければならない。
  • 3. チャールズはスライムが存在すると信じていない。

この点はおそらくほとんどの人に誤解されている(日本語文献でも英語文献でもほとんどはウォルトンを認知説を擁護しているとしている)。わたしもつい先日まで誤解していた。
ところが、これが誤解であることについては、ウォルトン自身が書いている。In Other Shoesの15章の注11を見よう。

多くの解説者は、恐怖には、自分が危険にあるという信念が必要だと私が考えているとしてきた。私はWalton(1990: 201-202)で、この原理を認めるのを拒否した。[ただしWalton(1978)では認めたが]

Walton(1990)は『ごっこ遊びとしてのミメーシス』、Walton(1978)は「フィクションを怖がる」にあたる。要するに1990年時点ですでに取り下げたというわけだ。

『ミメーシス』の該当ページを見ると、恐怖には必ずしも信念は必要ないことを確かに認めている。代わりに、恐怖は特定の行為を動機づけなければならないとしている。チャールズは、スライムから逃げるよう動機づけられていないので、スライムを怖れているとは言えない。
また、通常恐怖に結びつくような信念とも行為とも切り離されたものを恐怖として認めるべきではないとも書いている。ここで前提されているのは、認知説ではなく、感情には特定の種類のインプットかアウトプットが伴わなければならないという一種の機能主義だろう。


改めてパラドックスの形で定式化すると以下のようになると思う。

  • 1. チャールズはスライムを怖がる。
  • 2. xを怖がるためには、通常恐怖を動機づけるような信念(xが自分に危害を加えるなど)を信じているか、または通常恐怖によって動機づけられるような行為(xから逃げるなど)に動機づけられなければならない。
  • 3. チャールズは、スライムについて、通常恐怖を動機づけるような信念ももっていないし、しかも通常恐怖によって動機づけられるような行為へと動機づけられもしない。

よく知られているように、ウォルトンの解決は1を否定し、チャールズはスライムを怖がっていないとするものだ。

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, ExistenceIn Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence


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